<『シン・ゴジラ』について あるいは9年ぶりのゴジラ考>
『シン・ゴジラ』も伊丹の映画館ではお昼前の1回だけになってしまい、さすがに上映期間の終わりが近くなりました。にもかかわらず一度観ただけであえてもう一度観ておこうという気になれない自分がいます。僕にとって最大の理由ははっきりしていて、結局この映画って、いかに我々が「いざとなったら俺たちは凄いんだ」と思いたがっているかを庵野監督に見透かされ踊らされたも同然の代物としか観えなかったという一点に尽きるのですが、つらつら考えて気づいた別の理由として、この映画には未整理な部分がなさすぎたからのような気もしています。
まずこの映画では、ゴジラは人間側の何かを仮託された存在ではないのが54年版との大きな違いで、それが未確認生物としてのリアリティに直結している反面、ミッションの標的としての立ち位置を鮮明にすることにもなっています。
対する人間側は現実の我々の右往左往を受け持つ首脳クラスが一掃されたあと、こんな風に振舞えたらといういわば願望を仮託された主人公たちだけが舞台に残り、そこからはクライマックスへ向けて一直線という作りになっています。模範的なまでに整理されつくした作りで文句のつけようがありません。
振り返ってみれば54年版は未整理な映画でした。原爆と敗戦の衝撃をほぼ唯一の震源とするこの映画は、核による被害を等しく受けた怪獣と人間が互いを滅ぼしあうというストーリーの中、人間側はどこまでも被害者意識をにじませるばかりで、それ以外の全てはゴジラに押し付けられた趣さえあります。
しかもそんなゴジラの側にも、彼もまた被害者なのだという部分も併せて仮託されていて、そこにゴジラに対する情緒的共感が成立しうる余地が残されている。お世辞にも整理されているとは言い難い作りですし、本来は破綻しているとさえ見なすべきなのかもしれません。
けれどそれが絵の具をごてごてと重ね塗りした油絵のような一種の混沌とした泥臭い重たさをかもし出していて、戦後まだ十年たっておらずまだ高度成長の実感も到来していなかった時代の空気をそのまま封じることにつながっていることを、こういう作りだからこそ留めうるものもあるのだということを、改めて感じるばかりです。
『シン・ゴジラ』のクレバーとしか評しようのない鮮やかすぎるお手並みを思えば、どうやらそんな54年版みたいな作り方をしないといけないようなものを今の我々は抱え込んでいないのかもしれず、それはそれでありがたいことなのだろうとは思う反面、我々の時代や我々自身の軽さのようなものもどこかで感じてしまいます。
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この文は『シン・ゴジラ』のあまりの大ヒットぶりにどうにも乗る気になれぬまま、公開された年の秋に書いた愚痴みたいな代物ですが、改めて振り返ると僕の場合、映画を2度以上映画館で観返そうとするのはそれが傑作であるときよりも、興味を引く題材であるにもかかわらずどこかで失敗しているように感じられ、どこでどう失敗したのかを確かめたくなった場合に限られていたように思います。
ともあれこの映画を観たことで、ならば僕は『シン・ゴジラ』が切り捨てた要素ばかりを寄せ集め、誰一人喜ばない話を書いてやろうというわけのわからぬ思いを抱え込むはめになったのでした。やがてそれが、共に人間の手によりゴジラの要素を与えられ生み出された2体の怪獣、すなわち機龍とビオランテの出てくる地下版ゴジラのアイデアという形を取ったのです。
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コメント
もも
2020年 09月16日 01:39
2度 観たのですね
ふしじろ もひと
2020年 09月16日 04:55
もも様おはようございます。
そんなわけで、『シン・ゴジラ』は結局一度だけしか観ていません(汗)
Yoshi
2020年 09月16日 09:34
そうそうゴジラも被害者側なんですよね~
ちなみに ボクはシン・ゴジラを2度観ました^^
ふしじろ もひと
2020年 09月16日 22:36
Yoshi様こんばんは。『シン・ゴジラ』では意図的に伏せられていますが、牧教授には『機動警察パトレイバー』劇場版の帆場英一を連想させるような、社会に対する怨念めいたものの存在を示唆するものが感じられますね。