神父、牧師、主教、教会組織への信用は世界で多く明らかになっているその児童レイプなどにより、かなり崩れている。それらは神へのヒントは与えても、生き神様ではないが。数百億年前、ビッグバン起こし、生命も作った「神」は存在しても、特定の人や組織が神であるわけはないのだが。少しでも科学的に考えればわかるし、科学が発達していなかった聖書の時代も、イエスは自らを神の子と称し、神と思われることを否定もした。ならば、それらはイエス以上の存在になるわけで、その面からもおかしい。思い出しても、以上に神を語る人たちと、僕の言う神は違う神であることがわかります。
それと権威神を求める人たちは自由恋愛志向が弱いかもしれまない。自分たちのイエを作るため、結婚相手を求める。その教派の人たちがそうでしたし、仏教系新興宗教に入った知り合いたちもそうです。そのようなところは、教主に非常に執着。「すべての執着をなくせ」とお釈迦様は言われた。
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そのような発想に僕がなった理由も、教会前の福祉会と身障会の経験かもしれない。どちらも役員たちがワンマン的に会員に命令下して行動するやり方。福祉や身障運動はそのようなものでもないのに。おかしいと思っていた。内、一つはたまたま役員撤廃の案が出たから、僕も賛成した。
一方、イエスは平等説いたから、教会ではそのようなことはないと思い、行ったら非常な権威主義で失望。特に、主教への姿勢が今の北朝鮮の金正恩みたいでついていけなかった。
ちなみに、その福祉会で会長に僕を押す動きもあったが、ならなくてよかった。なり、仮にトラブルなくても、「井の中の蛙」になり、向上心がうせ、今の僕はないわけである。