島田小説書いて5年。書く時はすでに天国の彼らに祈っている。それで無意識的に信仰心が復活したらしく、メールも祈りを込めることが増えた。FBでまず友人が増え、次に恋人が増えたのもこんなことだと。友人や恋人を作るのではない。神とか仏、天によって結んでいただく。これが人間関係。
島田などに行っていたころはどうだったろうか。僕も無神論者を自称。でも、小説に書けるだけのふれあいした以上、彼らのほか、僕にも信仰はすでにあったろう。なければ、話聞いてもわからず、早く忘れるから。中学の時、無教会の学生ボランティアにお世話になり、高校の担任もその信仰。そこまでさかのぼる。
でも、信仰心ないか、教会組織みたいなものを信ずる人たちとは、対僕に限らず、交友は難しいし、話も理解してもらえない。ものすごく彼らはさみしい。寂しいから友や恋人求めるが、失敗か続かない。障碍の有無は関係ない。ボランティアや身障運動しても続かない。それらも本当は神様にさせていただくもの。自分とか仲間、教会組織でやるものではない。また、交友も酒を飲む、遊びからはできない。
昔の福祉会や身障会が早くつぶれ、恋人どころか、友人も作れない人たちが多いのもわかると。僕もそれらの場では寂しかったし。神などを追放した場だったから。これがかつての因縁のすべてである。例の教派含め。