「チョコレート・ドーナツ」というアメリカ映画を見ました。歌手を目指す同性愛の青年男性がそのパートナー男性と共に、ママに見捨てられた知的障碍児を養育しようとし、同性愛者の養育資格を巡って、1979年に裁判になる物語です。関心ある人は映画レンタルして下さい。
僕が一番気になった所は、「誰でも好きな性愛を求める自由がある」というセリフ。1979年の時点ですでに、同性愛の精神性が認められつつあった事ですね。今の日本でも認められていない。「同性愛」と聞くと、ほとんどの日本人は男同士、女同士の肉体関係を連想し、いやらしく思うのではないでしょうか。その精神性が無視されている。それどころか、男女の恋愛・性愛もその精神性が認められていない、市民権も得ていない気がします。そのひずみで昔は島田療育園など、施設障碍者の恋愛の件が無視されたり、今は高齢者関係のこの件が問題化している。やはり、かなりの人たちが高齢者の肉体関係を心の中で想像し、愛の精神性には気が付かず、気持ち悪く思っている人たちも多いと思います。元皇族の真子様の恋愛にしても、その精神性をどれだけ理解しているのかと。一切が共通しています。
旧約聖書の雅歌や詩編には素晴らしい恋愛の歌が多く、恋愛の精神性がクローズアップされている。恋愛の持つ精神性は隣人愛やアガペーに通じるわけです。アガペーに至る大切なステップ。明治以来の日本人が重んじている仲良し関係からは愛には至らないわけですが。本当は仏教も恋愛の精神性は尊重されています。
日本でまだ恋愛の精神性が認められていないならば、同性愛婚も、高齢者の恋愛問題も解決は難しいわけですね。イエの為の見合婚はなくなりましたが、いまだに世代の別なく、恋愛を友人関係や仲良しの延長と思っている日本人も多いし。恋愛は心地よさのほか、生きる活力にも通じるパワーも出ますが、仲良し関係には活力はなく、愛には発展しません。日本の福祉が遅れた要因の一つでもある。仲良し主義からは福祉はできません。愛に終始しないとダメです。
もう一つ。恋愛の精神性には気が付かなくても、生きている以上は性欲はある。精神性抜きの性ならば、援助交際やアダルトにもなりますよ。昔からあった。1970年代は日本はお金があったから、男たちが東南アジアやインドにセックスを買う旅行も多かった。戦前は「赤線」と呼ばれる売春地帯があり、貧しい娘たちが売られていましたね。