まず、紙切れや金属片に過ぎない紙幣やコインが価値を持つのは「強制通用力」が国家によって生じているからである。高校3年の時、社会科で習い、今もはっきり覚えている。「燃やせば灰になる一万円札が...」と冗談を交えて先生が教えてくれた。また、紙幣やコインを日本中合わせても、国民の持つ全財産には遠く及ばない事も。世界各国がそうだが、いわゆる「お金・マネー」は大部分が銀行に預けられており、数字上の管理だけをされている。その一部しか銀行にも保管されていないわけである。だから、例えば、日本国民が全員銀行に行き、自分のお金を引き出そうとしたら、大変なことなるわけである。1929年10月のアメリカから起きた金融大恐慌の時は日本でもそうなり、パニックに陥った。今読んでいる「クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界(バルファキス・ヤニス著・講談社)」にも、お金は銀行の帳簿上に付けられている存在である事を分かりやすく解説してある。
高校時代の以上を思い出し、当時は気が付かなかった事に気が付いている。「強制通用力」があるのならば、各国家の力は相当なものだと。お金関係はその一部に過ぎない。徴兵、宣戦布告、教育、農業、福祉、医療、法律関係。それらを総合したのが「権力」だろうか。かつての権力者を倒したレーニンやスターリン、毛沢東が自ら皇帝みたいになったのは歴史の皮肉だが、国家権力を手にするとそうなるのかもしれない。また、貨幣制度を廃止して理想社会を作ろうとしたポル・ポトだが、貨幣を通さない分、カンボジア国民にストレートに権力支配してしまい、その結果が「虐殺」になったと考えられるかもしれない。それらの根本のマルクス著資本論は、僕が浅読したところ、経済問題や資本家搾取の実態、資本家が封建制を駆逐したいきさつは明瞭に書かれているが、「国家権力の矛盾」については述べられているだろうか。19世紀という時代状況からマルクス批判はできないとは思うが、どうしても考察不足だったように思われる。だから、後継の各国が国家主義みたいになっていったのかもしれない。国家権力は想像以上に難しいとも考えられる。
ネット社会で生まれたビットコインは、国家が関係しないお金である。生まれたばかりだから、様子を見守るしか今はできない。ただし、国家権力によらないお金。中国当局は目を光らせいるそうだし、日本含む、全世界の国々も干渉してくるかもしれない。
それから、0金利やマイナス金利は資本主義終末だけだろうか。国家の力の衰退の始まりだとも考えられる。
以上だが、マネーは経済よりも政治の問題の色彩の方が強いかもしれない。マネーから色々な事を考えさせられる。