「知っていても、問題には思わない」が当時のほとんどの人たちの気持ちだった。今の僕はお世話になっているヘルパーさんたちのその延長などで、昔の島田職員のひどい状況が察せられるが、昔はひどいとは思わなかった。後続で行った身障運動家たちにしろ、一緒に行ったボランティアの人たちにしろ。身障運動家たちが問題にしたのは、園生の恋愛抑圧や外出制限、それに僕の場合は医療用麻薬投与の事である。ボランィアたちは自己犠牲的な職員を見て、心が痛む例がかなりあったが、魅力的に思うだけで、職員の人権の事は大体述べていない。一人、弁護士志望の東大法学部の人が徹底的に考えた末、「貨幣制度と結婚制度をなくさなければ、福祉問題は解決しない」と言い出したくらいで。
当時は介護と保育は「タダが当たり前」だったからである。家事と手助けの延長と多くの人たちは考えていた。福祉に関係ない人たちはもちろん、福祉関係者や身障者も。身障者の生活介護は家族か、ボランティア、友人が行なっていた。それらは手助けの延長だから、ただである。家族から離れて、ボランティアや友人の介護で暮らすことを「自立」と呼んでいた。そのような状況ならば、弁護士的な人くらいしか、職員のその事は気が付かないし、世間全般がそうならば、当時の役人や政治家も気が付かないのも当然だった。慣行みたいな事は恐ろしいと思う。当時の人間には、「介護や保育労働と他の労働の比較」なんてできなかった。
以上の事も見えてきて、僕も初めてその小説が書けるようになった面はある。
因みに、ヨーロッパやアメリカでは、その時も黒人などの被差別民族に低賃金の介護労働を強いてきたという、もっと根が深い問題があったし、今もそうかもしれない。外国に模範は求めず、日本は自ら福祉を作る必要があるわけである。共生社会を。