がっこ会長については、掘り起こすと、医者が教育運動する事はおかしい点は出てくるが、それ以上は書く気がしません。同じころに見た島田療育園とは大違いです。感動の有無の違いですね。
島田では悲恋の手記があったし、端から女性職員に恋文書いていた別の身障男性園生の話も聞けた。寝たきりの文士の野口栄一君は、随筆文に恋愛関係のものを多く書くなど、僕も十分感動でき、魅力的でもありました。
しかし、がっこ会長やそのサポーターの話は教育関係ばかりで、恋愛関係は一切話していない。学校という場の性質上は仕方ないかもしれませんが、障害児の学校排除の話に同情する人はいても、感動する人はまずいないでしょう。その会も伸びなかったわけですよ。
それから、母校の光明養護学校にはたくさんの文人が輩出していますが、光明の事は手記文は多くても、小説はお目にかかった事はないし、大体、学校小説自体が非常に少ないですね。児童・生徒の本格的な恋愛や悲恋は少ないから、小説に仕様がないのかもしれない。母校に限らず、僕も学校小説は書きようがないわけです。
学校小説は少ない。旧友の中学教師が「世間の学校関係の無関心」を嘆いていました。理由は「高齢者福祉に世間の目が向いているから」と語っていましたが、それもあるにしろ、他に小説にするのが難しく、小説を通しての世間浸透がないせいもあると思います。我々は学校について知らなすぎるかもしれません。