<ゴジラ映画にみる戦争体験の風化 9>
*初代ゴジラを機龍に変えてしまう時代としての現代 3
『MG1』において、機龍を開発するのは科学者のチームです。物語上では一応湯原博士にスポットが当てられていますが、彼は機龍の開発の中では初代ゴジラの骨中に残存する細胞を活性化する段階だけを手掛けています。おまけにこの博士、最初は開発への参加を断るのですが、その理由は単に小学生の娘といっしょの時間を減らしたくないというものにすぎず、いっしょに暮らしていいと言われてあっさりオーケーしてしまいます。妊娠のトラブルで妻と子を亡くした過去を持つにもかかわらず全体としてコミカルに描写されている湯原博士に、世界の苦悩を一身に背負ったような芹沢博士の面影を求めるのは不可能ですが、ここではやはり科学者が個人ではなく集団であることが重要です。『ゴジラ』に比べればこちらが現実のとおりなのであり半世紀前でさえ兵器は集団で開発していたのですから嘘をついているのは『ゴジラ』の方なのです。しかしこのことにより湯原博士も他のメンバーも誰ひとり芹沢博士のように判断し決断する立場には立てません。機龍の開発も暴走の原因追求と改修作業も彼らにとっては目の前の解決すべき課題にすぎず、困難な課題をチームの力で乗り超えてゆく様が当時ブームだったプロジェクトXと同じノリで活写されます。これは北方から核ミサイルを吐く○×が来るから対抗兵器が必要だという話になれば何が起きるかの身も蓋もないシミュレーションです。「たとえ相手が○×でもやっていけないことがある」などと考える人もなく、世界に誇るべき勤勉さでまたたく間に優秀なプロダクツを完成させ、とある総理大臣が好きだった言い方に従えば「適切な判断」にもとづき取り扱われるであろうことを高い確率で予測したシミュレーションです。まして想定される事態が核攻撃なのであれば、恐怖する世論にとっての「適切な判断」とは防衛という名の先制攻撃とさえなりかねないわけです。
『MG1』のスタッフは、こんなシニカルなシミュレーションを意図して作ったわけではなさそうです。ドラマ作りとして見ればこのシミュレーションは科学者に判断や決断する機会を与えないことで機龍が抱え込んだ重い設定に向き合うための足場を自ら捨てているのですから。深い考えなくもっともらしさを追求した結果、できてしまったシミュレーションなのでしょう。そのことがかえって僕にはなんともやりきれなく感じられます。演出意図に歪められていない鏡像の正しさをこのシミュレーションに感じてしまうからです。
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コメント
もも
2020年 09月10日 01:28
今夜もありがとうございましたー
ふしじろ もひと
2020年 09月10日 01:44
もも様こんばんは。
ご覧下さりありがとうございました。