<ゴジラ映画にみる戦争体験の風化 6>
*初代ゴジラの骨への冒涜にいたる半世紀 その2
『ギドラ』におけるゴジラ、というより怪獣の設定は、シリーズ半世紀の歴史の中でも類例のないものです。もともと怪獣という存在自体が架空のものなのに、ここではゴジラはある種の怨霊として、護国聖獣と称されるバラゴン・モスラ・キングギドラは精霊としての性質を色濃くそなえた二重に実体のない存在とされています。ここでゴジラは戦没者の怨霊ではないかといわれるわけですが、そのことは(おそらく意図的に)追求されることなく、ジャパニーズホラーでおなじみの誰にでも無差別に襲いかかる悪意の象徴として出現するのに最低限必要な理由付けがなされているのみです。
怪獣映画はしばしば無自覚的に時代の鏡になってしまうことがありますが『ギドラ』のスタッフはむしろ確信犯だと思います。彼らは初代ゴジラの恐怖の源が戦災体験の生々しさに多くを負ったものであったことをわかった上で、その生々しさが薄れた現状では戦争が生み出した悪霊とゴジラを規定することでジャパニーズホラーの様式に落とし込むのが最善であると考えたに違いないと思います。今現在、ゴジラを恐ろしく見せることに限るならば僕にもこれ以上の方法は思いつきません。知能犯と感じるゆえんです。
けれど戦没者(日本人のみならず敵側も含めた総体として)をたとえ絵空事としても悪霊とみなすことが『ゴジラ』の時代にできたかといえば、答えはやはり否でしょう。ここには『ゴジラ』がそうであったように怪獣をより恐ろしく見せるためにはどんな手段も辞さない姿勢がかいま見えますが、実際に選ばれた手段の違いに戦後半世紀が過ぎた戦争体験の風化を感じざるをえないのも確かです。
あと残念なのは、この映画では平成ガメラシリーズを手がけた金子監督がゴジラを撮るというので話題になってもいましたが、護国聖獣の顔ぶれが原案ではバラゴンの他にアンギラスとバランという、確かに地味ながら護国聖獣という設定を思えばよりふさわしそうな組み合わせだったのに、東宝サイドの意向でモスラとキングギドラという人気怪獣に変えられたと伝えられるように、あまり自由に撮らせてもらえなかったらしいこと。そのせいか、ゴジラの恐ろしさは実に印象的に仕上がっていますが、護国聖獣側がいま一つキャラ立ちするとこまでいかなかった憾みがあります。
とはいえ護国聖獣の設定が平成ガメラシリーズと同じくあまり明確に語られなかったのがそのせいなのか始めからそうするつもりだったのかはよくわからないのですが、ガメラが古代の超文明の産物だったことが仄めかされるガメラシリーズには感じられなかった微妙な不満が、悪霊であることを仄めかされるゴジラにはまとわりついているような気がしてならないのは、やはりガメラに比べてゴジラが重いものを担って生み出された出自の影響もあるのではとも感じてしまうのです。護国聖獣という設定は人類の歴史の中で何度も繰り返された、征服された側の神が征服した側によって怪物に貶められたり征服した側の守り神に加えられたりした例を思い出させずにおかないものであり、おそらく金子監督には人間がいかにして3体もの怪獣を軍門に下らせたのかという理由付けはあったに違いないとも思うだけに、それら3体さえも退ける悪霊としてのゴジラとは何かという意味づけが護国聖獣の設定の先にあったのではないかとしか思えないからです。
ともあれ『ゴジラ』で戦災体験に不用意に触れてしまい、以後ゴジラの重要な要素である戦争とのかかわりを自ら封印し続けてきたゴジラ映画が、充分な自覚と危険を回避するだけの判断力を持つスタッフの手にかかってさえ『ゴジラ』の時代には考えられない処理をされていることは、『ゴジラ』の時代と『ギドラ』の時代がいかにかけ離れたものになっているかを示しているとしかいいようのないものです。それを念頭に置くことが次に作られたより自覚に乏しい作りの映画を考えるにあたっては欠かせないと僕は思うのです。
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コメント
もも
2020年 09月06日 23:05
ゴジラさんはあんな大きな体を何を食べて維持していたのですか?
ふしじろ もひと
2020年 09月06日 23:56
もも様こんばんは。昭和のシリーズにはクジラを追いかけていたらしき場面がありましたが、平成のシリーズからは核エネルギーを吸収しているという描写になっています。