<ゴジラ映画にみる戦争体験の風化 4>
*以後のゴジラ映画の歩みを定めたのはむしろ『逆襲』か
『逆襲』を『ゴジラ』と並べてみると、共通点も多いせいでよけいに違いが際立つ印象があります。『ゴジラ』に比べると得体の知れないものへの不安がまず希薄です。怪獣の出番も妙に少なく間延びした感じがします。何より『ゴジラ』を覆っていた重苦しい悲劇性の代わりにむしろ明るいムードが漂っています。怪獣映画を架空の存在にストーリー運びや演出の力で迫真性を持たせてかりそめの不安や畏怖を感じさせるものととらえるならば、『逆襲』は『ゴジラ』ほど上出来な怪獣映画とはいえません。今までの『逆襲』への評価はもっぱらそういう観点からのものでしたから、『ゴジラ』に比べ影の薄い映画という印象になりがちです。ちゃんと作りたかったのに不首尾に終わった失敗作と考えている人もたくさんいるかもしれません。
しかし『ゴジラ』がなまじ傑作だったせいで人々に辛すぎる映画になったのかもしれないのなら、『逆襲』も出来損ないだったのではなく意図的にこういう作品として作られた可能性が浮かび上がります。
まず怪獣の扱いですが、正体が明らかになるまでのプロセスを長く取り得体の知れない不安感を醸し出した『ゴジラ』に比べ、『逆襲』では唐突にゴジラとアンギラスが登場してしまいます。ゴジラに関しては前作で正体が明るみに出ているのですから当然なのですが、後の『フランケンシュタイン対地底怪獣』のように2体の怪獣が登場する場合は片方の正体を隠しておくことで同様の不安感を醸し出すこともできないわけではありません。もちろん『逆襲』の失敗が後の作品への教訓になったと考えることはできますし実際にもそうなのかもしれませんが、前作であそこまでできたのに1年後にいきなり失敗するというのも考えれば妙な話です。怪獣の出番が少なくなったことも含め、ここでは怪獣の描写がとにかくメインだった『ゴジラ』に比べ『逆襲』では怪獣描写の比重が意図的に下げられた可能性を念頭に置きたいと思います。質的にも量的にもあまりに濃密であった怪獣の存在感を削ぎ落とす意図が働いていたのではないかという気がするのです。
怪獣描写のウェイトが下げられて何が増えたかといえば人間の描写なのですが、この映画の妙な明るさはもっぱらこの部分に由来しています。前作で破壊された東京のかわりにここでは大阪が焦土と化すのですが、ゴジラが去った東京に残された被害者の描写がまさに空襲で焼け出された人々はこうであっただろうというような呆然自失のうつろな無力感に満ちたものだったのに対し、大阪の場合は工場も社屋も1夜にして失った社長が「わしは必ず会社を再建してみせる」とやたら前向きなのですね。このあたりが我々から見ればどうにもむずかゆいというか、うそっぽく感じられるから妙なのですが、前作の描写に耐えられない人々に向けた作りだと考えればこうなるのは必然でさえあります。なによりクライマックス。芹沢博士の「特攻」が生きて帰らない決意ゆえに「特攻」だったのに対し、『逆襲』でのそれは飛行機で巨大な敵を倒すという形の上での「特攻」です。4機出撃して主人公補正のかかった1機しか生還しないのですから結果の点でも特攻以外の何物でもないのですが、一応「急降下して、ゴジラに撃ち落とされないようにミサイルを発射して、崖に機体をひっかけずに帰ってこい」というのが命令の中身なのですね。実際の特攻とは正反対の命令があえて強調されるのも形と結果が「特攻」になってしまう印象を和らげようという配慮ゆえのものだったように思えます。ついでながらこの映画は人間がまっとうな手段(空想上の手段を使わないという意味です)でゴジラを退けた唯一のものでもあります。
ゴジラというキャラクターは戦争体験がまだ生々しかった時代に、それを逆なでするような核の恐怖を母体として生み出されたものであり、日本人の反戦への思いが込められたものと評されることもしばしばです。しかし当時の人々の戦災の記憶が生々しすぎたために、早くも2作目にしてゴジラを戦争のイメージから切り離そうとする動きが出てきたことが『逆襲』の作りに顕れているのではないでしょうか。『ゴジラ』でリアリティのある恐ろしさを追求するあまり被災者の生傷に触れてしまった反省として、本来その由来でさえあるはずのものをタブーとして封印してしまい、高度成長期に入り戦災の記憶そのものが風化してゆくのを待つかのように氷に閉じ込められて眠りにつくゴジラ。カラーの時代に復活したゴジラがどちらのゴジラだったのかは明らかだと僕には思えます。そしてこの「選択」が日本人の戦争体験に対する姿勢を反映したものであり、あまりにつらい記憶を忘れることで次の時代に進もうとしていた高度成長期前夜の社会の空気がこの映画からたちのぼってくるような気がするのです。
観客の反応を度外視してリアリティを求めた『ゴジラ』が時代を超えるものになりえたのと対照的に『逆襲』は目の前の観客への配慮ゆえに時代のくびきにつながれて歳月が過ぎゆくにつれて意味が読み解けないものになったように思います。戦争体験が風化すればするほどわけがわからなくなる映画が『逆襲』だといっていいのかもしれません。『逆襲』を観る場合は想像力の限りを尽くすことで、ほんの十年前に戦災にあった気持ちに無理にでもなる必要があるのかもしれません。
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コメント
もも
2020年 09月06日 02:03
戦争や喧嘩は嫌です
ふしじろ もひと
2020年 09月06日 06:16
もも様おはようございます。
僕も嫌ですが、特に戦争は実体験がないだけに、うっかりすると身近に迫ってきてもわからないのも怖いなあと……(汗)