「共に生きる」と「仲よく」は違う。前者は障碍者は勿論、被差別者や外国人も、それこそ全人類を含む言葉である。それに対し、後者は気が合う人たちだけのものであり、狭い。VYSの場合、学校問題から共に生きるが出ると主要メンバーは考えたらしいが、仲良くしか出ず、教育に関心のない人たちから抜けて行き、終わった。
その数年後に僕が行った教会関係。内で在日韓国系や、歴史的因襲からの被差別者も多く、その面のトラブルが深刻化。それに関わるかなりの人達から聞いた話では、「仲よくではそのような被差別者は付き合えば付き合うほど、大ゲンカになる。立場の違いが出て。仲良くは内向きな心だから。そうではなく、全人類的な発想を持ち、多くの人と付き合う気持ちを各人が持たないと、いかなる差別問題も解決しない」と。
以上を思い出し、更に東Vにいた聴障を持つKの事も思い出している。聴障者たちは手話で意思疎通。多くの人たちは手話は判らない。言葉が違う事は大きく、民族問題にも共通する根が深い問題がある。又、彼は聴障者たちの悲惨な状況を多く話し、一緒に何かする事は拒否したと聞いている。統合教育関係にも無関心。恐らくは、我々と仲よくする意思もなかったと見ている。聴障問題も内むきな仲良し関係ではどうにもならないようだ。
VYSにそのような人がいただけでもものすごい事だったし、余り話はできなかったが、彼がいて良かったと思う。彼のお陰で、更に被差別問題が明確に判ったわけだし。
因みに、学校問題の要は「一人一人の子供の幸せを考えて、伸ばす」。仲良しとは目的も違うわけである。専門知識も必要だし、これも容易にやれる事ではない。