信仰について更に述べる必要があるのは死の問題。誰も死後の事は判らない。でも、例えば、キリスト教では、イエスの死後の復活を信ずると、歴史の果ての時にイエスの愛の力により、心身共に復活すると言われている。イスラムでも、アラーの定めた戒律を実行し、貧しい人たちにはお金を施し、体や目が不自由な人たちには介護をすると、天国に死後復活できると言われている。仏教の浄土系の教義も、念仏を唱えると死後は極楽に往生できると。
大体、人間は死後は身体も、意識も消えると思い、死を元々恐れる面がある。例えば、死を連想する強い地震を誰もが恐れるのもそのせいであろう。また、権力者の不正が気に入らなくても、権力者に銃口を向けられたら、多くの人たちは自分が死ぬのを恐れてひるむわけである。ところが、以上の通り、何かの信仰を強く持てば、自分は復活なり、極楽往生なりができると信ずるから、死は恐れないどころか、「正義の死」はまさに信仰にもかなうから、喜びにもなり、非常に強く権力者に抵抗するわけである。初期キリスト教のローマ帝国への抵抗、1637年の日本に起きた「島原の乱」はその典型例である。現代でも。1980年代、旧ソ連の大軍がアフガニスタンで、「正義の死」を無上の喜びとするイスラムの戦士たちに負けて、ソ連崩壊の一因にさえもなった事があった。ソ連軍の人たちは、唯物主義者が多く、「死ねば終わり」と思っていたから、非常に戦いを恐れ、戦う前から勝敗は見えていたわけである。(但し、その弊害も多い。今のムスリム・テロリストはその典型。歴史を見ると、十字軍など、各宗教で同様のものも起きているわけであるが)。
因みに、詳しい事は書けないが、ある所でマルクス主義者の一人が「資本論」に書かれてある「死はその人に与えられた、冷酷な究極の勝利である」という言葉を音読しながら、「私はそのような気持にはなれない。死は恐い」と本音を語っていたのを思い出します。社会運動にはマルクスに心を向けても、死の事は別のものを模索しているとか。確かに、マルクスも死後の事は判らなかったから。(そのマルクスの死生観は根はユダヤ教にある価値観であるが。ユダヤ教のかなりは「死は無」という価値観を古代から有していた。その他、輪廻転生を説く教派も古代ユダヤ教にはあった。輪廻転生はインドや仏教が有名だが、ソクラテスやプラトンも説いたし、イスラムやキリスト教の一部にも影ながらある。古代中国やアメリカ先住民にも見られるそうだ。現代アメリカで、退行催眠から前世の記憶が引き出せた事もあったし。信仰の問題とはやや離れるので、カッコ内で書いたが、面白いとも思う)
これ以上深くは僕には書けないが、信仰と死の問題は切り離せないのは事実である。人は確実に死ぬ存在で、他の動物とは違い、死を認識できるわけだから。