虚構の事を述べたため、諸々の信仰の問題も述べざるを得なくなった。
例えば、キリスト教では「イエスが磔で殺された三日後に復活した」とあるし、イスラムでは「酒はアラーが禁止した。豚肉を食べる事もアラーが禁止した」などとある。仏教の浄土系の宗派は「死後は極楽に生まれ変わる」とある。それらは信仰を持たない人たちから見れば、虚構にも思えるだろう。
でも、それを真に信仰している人たちは、一見虚構に見える事でも、「確かな現実」なのである。
例えば、イスラムでは、「豚肉を食べない」事は「アラーが定めたから」現実であり、豚肉を食べない事が「当たり前」になるのである。イスラムの敬虔な信仰を持つ人たちは豚肉を食べない理由について「アラーが定めたから」という答えしか返ってこないわけである。豚にはたくさんの病原菌やウィルス、寄生虫が付いているから、あるいは禁止の大元は経験医学的な事だったのかもしれないが、時がたち、イスラムが定着すると、「豚肉を食べない」が現実になった。現実を話すには理屈は必要ないわけで、そのような答えになるわけである。
勿論、キリスト教の「復活」も現実として受け止めれば、それが当たり前になり、理屈はこねないわけである。そして、生死の観念も越えるから、時として、キリスト教に反対する権力者に反乱を起こすわけである。日本の17世紀前半のキリスト教徒の「島原の乱」はその典型例である。
仏教の浄土系のものも同じである。
もし、何かの教義を宗教家や信徒たちの多くが虚構と思えば、そのような宗教は成立せず、すぐに潰れたり、理屈をこね合い、論争から内紛も起こすわけである。
「現実からは理屈は生れない」はどのような事にも言えるはずである。福祉関係でも、理屈をこねる身障会や福祉会は確実に潰れているわけである。