信仰について一つ大事な事を述べないといけない。例えば、キリスト教における「キリストの復活」、浄土系の「極楽往生」、イスラムの「アラーが定めた戒律」は無神論者から見れば虚構に見えるが、それを「現実」と堅く信じて、現実を生きるのが肝要な点である。もし、信徒が虚構だと思えば、信仰は成立しない。
僕の行った教会関係が後年思えば、そうだったかもしれない。イエスの復活を、何かのおとぎ話のような虚構と信徒たちは勿論、牧師たちも思っていた。むしろ、牧師ほど。だから、キリスト=教会組織とか、内輪に通じない抽象的な話とか、僕が生き神様として祭り上げられそうになったり、果てはレイプ牧師が二人も出て、一件は牧師たちが隠ぺい工作という、あってはならない事をしたりもしたと。
「復活」の観念は日本には元々余りなかったからね。現代は唯物的思考で更にそうなっている。とは言え、例えば、「空海が生き続けている」とか、キリスト教伝来前も「復活」に通じる観念は日本にあったし、根を掘り下げれば、仏教にもそれに通じる観念もあると僕は見ている。歴史を冷徹に学べば、復活も日本人に信じられるし、催眠術から実証されつつある輪廻転生の件とも絡めての信仰でも良いと思っている。
因みに、「アラーが定めたから、豚肉は食べない・酒は飲まない」もイスラムの人たちにとっての強烈な現実。コーランの虚構なんかではないわけですね。