今日はバレンタインディ。それに因んで、広く愛について考えてみたい。
まず、愛についての世間の誤解を少し述べる。いわゆる他人に「して上げる・物や金を差し上げる」事が愛という誤解があるようだが、それは違う。強いて言えば、お節介の類である。弱者への同情とか。愛の基本は「相手の事を頭ごなしに受け入れる」事に他ならない。相手の心とかも。そこから聖書の「己の如く、隣人を愛する」とか、相手の心身を生かしていく愛特有の現象になるのだと僕は思う。
では、何故、頭ごなしで、理屈や理論抜きで相手を受け止めるのか。人間の持つ心・人格は無限に深く、どんなに頭の良い人でも、いくら意思疎通しても、理解は不可能だからである。相手を理解したつもりが、もっと深い面があったりする事は誰でも経験しているだろう。理解にこだわると、互いに訳が判らなくなり、相手の欠点ばかり見え合い、ケンカ別れにもなる。僕も色々経験があるわけだが。僕の母校の大先輩の故花田春兆氏は複数の著書に「障碍児の親はその障碍児の気持ちは判らないものだ」と書いていた。晩年の僕の父もこの問題に気が付き、考えこんでいた。何も障碍児に限らず、親はそのようなものだと思う。何も親子に限らず、本当に全ての人間関係はそうだと思う。同じ種類の障碍である、脳性まひ者同士とか、ハンセン氏病元患者同士もそうである。どんな友人間も。だから、「友人間は理解できない。恋人・夫婦間ならば理解し合えるだろう」と思い、それを恋人や夫婦に求める人たちもいるが、それも最初は理解錯覚に陥って楽しくても、やがては理解し合えない事に気が付き、失望し、別れる例もあるようである。大体、身体も、脳の構造も違う男女が理解し合えるだろうか。不可能である。それでも、「受け止め合える」事はできるし、違いがあるからこそ、強く受け止め合えられるわけである。強く愛し合えるわけだと。
捜査を待たなければ何も言えないが、心愛ちゃんを虐待した父母も、子供の事を「受け入れる」事ができなかった・知らなかった人であるようだ。仮に子供を理解しようとしても、受け入れる事ができなければ、虐待みたいになるのではないか。高齢者や障碍者関係で見られる職員による虐待にも通じるのかもしれない。愛は親子や男女に限らず、福祉関係にも言える。受け入れる・愛をできない職員や介護士、ボランティアは必ず失敗している。僕は全生園の伊藤まつさんの所に死ぬまで生き続けられたが、その理由の一つにも、最初から「医学知識がないのに、まつさんの事は判るわけもない」と理解を放棄した事が逆に良かったと。見ていて、全生園を理解しようとしたボランティアたちは必ず早くに止めている。理解と愛は違うわけである。何事も愛に基づかないとできないわけである。
とにかく、目の前の人達から相手を受け入れたいものである。特に、弱い面、格好の悪い面を。そこから真の恋愛関係や夫婦も、福祉社会作りも始まるのだから。