表題の通りである。僕が所属した複数の団体がそうだった。ここでは、一番問題が深かったと思われる、僕の行った教派の事から説明して述べよう。
キリスト教会にも色々あるが、僕の行った教派は明治の時からメンバーが固定化されていたようだ。世間から孤立した仲間関係を作り、仲間内しか通じない話をする。新人信徒が入会しても話か合わず、大体止めていく。僕もその一人だった。常に同じ顔ぶれである。
愛=受け止め合いならば、いつも同じメンバーと付き合っていれば、受け止め合う必要も、その気持ちもなくなるのではないか。実際、そうであった。受け止め合い=愛が面倒くさい。本当にそのように述べていた信徒も複数いた。思い出すと、あきれ笑いも湧いてくる。そのような状況があれば、愛解釈も「元患者に慰問して上げる」とか、ひん曲がったものになる事は確実である。また、土台に真の愛がなければ、交友しても冷たい関係になったり、男女は性欲ばかり追求して結婚後は離婚が当たり前みたいになったり、身障信徒や部落系、在日系の人たちを結婚対象から排除などの差別も起きるのも当然ではないか。果てはレイプとか、韓国系の人を差別するよな牧師も現れたわけである。こうなれば、潰れるしかないわけだ。極端な例だったが、それに限らず、メンバー固定化された会は必ず愛が欠落している。
新旧聖書の舞台の古代中東は本当に多くの人・民族が交わる所だった。だから、受け止め合い=愛の観念が発達したと。釈迦を産んだ古代インドも、マホメッドを産んだ当時のアラビアも同じである。日本は島国でなかなかそのような状況は作れないが、特に固定化された団体ほど、そうである。そう言えば、以上の教派では、愛と仲間意識を混同という、勉強不足以前の問題も見られ、特に牧師たちに言えた。いくら勉強しても、固定化されたメンバー付き合いだとそうなるようである。僕は二人の者に「仲間意識ほど、当てにならないものはないよ」と言われた。一人は、以上の教派に明治以来、敵対した教派の伝道師だった。その言葉も僕には真実に思えます。仲間関係は作ってはいけません。愛オンリーで生きないとダメです。