僕の行った例の教派の事である。伝道師含む、かなりの人たちが「ピラトの扇動もあり、イエスは民衆に見捨てられ、事実上、殺された。イエスはある意味では民衆に殺されたようなものである。それゆえ、民衆を根拠とする民主主義はダメである。民衆に働きかけてもムダだ」と述べたし、そのような手紙も書いていた。反天皇だけでなく、反民主主義の意見も非常に強い所だった。無教会やカトリックの人たちはこのような事は言っていないので、当時の僕も変に思った。
まず、民衆の歴史的検証が欠落していたね。2000年前はほとんどの人たちは教育は受けておらず、人権という発想もなかった。2000年前と今の「民衆」を同じに見ているわけで、明らかにおかしい。当時の教育状況や人権思想も注目しないといけない。
それから、「群集心理」の問題も欠落している。特に、教育を受けていない人たちは群集心理に流されやすいし、それは現代にも言える。その教会関係も群集心理に動かされる面が強いし。
また、以上とはやや趣が違うが、イエスは本当に「殺された」のか。殺されたのは肉体だけではないか。イエスの心は殺されなかった。少し間を置いて、民衆の中に蘇った。まさに「復活」である。以上の考え方は復活も無視。キリスト教でもない事になる。おかしいと今の僕は思う。
「神の前に平等」。つまり、民主主義はキリスト教から生まれたという説もあるくらいだし。以上の発想はおかしいと。明治期、愛と仲間意識を混同してその信徒たちは思ったらしく、以後、今日まで仲間意識を絶対視する発想になり、信徒仲間とだけ付き合い、非常に信徒や牧師の視野は狭くなっているから、民衆という観念自体もなく、以上のような反民主的な発想にもなるわけである。しかし、反天皇、反民主主義、反共産主義ならば、どんな政治形態に日本はなるのだろう。彼らは世間に背を向け続けているのは事実らしい。インターネットで調べても、そのような世間からの批判が多数寄せられているわけである。