ラージャヨーガ(「王のヨーガ」の意)は、瞑想(ディヤーナ)によって心を涵養し、真実在への理解を深めて最終的に解脱を達成することを目指すヨーガの体系。古典ヨーガ、アシュターンガ・ヨーガ(八支ヨーガ)ともいいます。
ラージャヨーガはパタンジャリの『ヨーガスートラ』が初めて述べたところのものであり、サーンキヤ学派と密接に関連する。
ヒンドゥー哲学の文脈において、ラージャヨーガはヨーガ学派と呼ばれる。ヨーガ学派はヒンドゥー哲学の六派のひとつ。
ラージャヨーガは、何よりもまず心に係わるものであるがゆえに、そう呼称されます。伝統的には心とは、(自覚的にせよ無自覚的にせよ)心の命令を遂行する心身複合機構であるところの人間存在の「王」であると考えられている。その心と身体の関係のゆえに、身体はまず、自己規律訓練によって馴致され、さまざまな手段によって浄化されなければならない。人間はもろもろの中毒や妄念を抱えており、これらは静かに坐すること(瞑想)を妨げる。禁戒(ヤマ)、たとえば禁欲、禁酒、自分の身体・言語・意識(身口意)の行いに念を入れること、といったことを通じて、人間の生存状態は瞑想を行うに適したものとなる。この、自分を自分自身に繋ぎとめる軛(くびき)こそが、ヨーガという言葉のもうひとつの意味である。
パタンジャリの『ヨーガスートラ』は、「ヨーガとは心の作用を止滅させることである」という言明で始まる。それから、いかにして心が錯誤的観念作用をなすかについて列挙し、さまざまな実的対象へ念想することを推奨する。この過程は、一切の心の対象がなくなる「無種子」という、自然発生的な静寂の心の境地へと到達するとされる。
この境地に入る力を養うための実習がラージャヨーガの実践であると考えることができる。したがってラージャヨーガはヨーガの他の諸形態を包含し、かつ、心が偽りの心的対象を生み出すような妄執的実習へ没入してしまわないようにすることをもって他のヨーガの諸形態とは一線を画している。
この意味においてラージャヨーガは「ヨーガの中の王」と呼ばれる。あらゆるヨーガ的実践は無種子の境地を得るための可能性のあるツールであると捉えられ、それ自体はカルマを浄化し解脱すなわち涅槃を得るという探求の出発点であると考えられる。歴史上、「ラージャ」(王)を自称するヨーガの諸流派は、学び手にヨーガの実践と(望むべくは、もしくは理想的には)この哲学的観点との混合物を提示する。