例の教会関係で在日韓国人に「一緒に聖餐しているから、差別はない」と述べ、激怒された日本人牧師も思い出す。その教派は堅信受けて、聖餐できるが、僕は洗礼受けても、堅信も聖餐も受けたくなかった。受けなかった。確かに、受けたら、それと同じになるからね。月約献金は払い。おかしい。
その教派は明治から仲間関係重んじ、「仲間になれば差別は消える」という発想があるが、そこに行った時の僕はすでにそこからは差別は消えないことに気が付いていたからね。堅信受けなかったのも当然。
さらに、聖餐やキリスト教の目的は仲間関係作りだろうか。本当にそうなら僕はキリスト教否定にもなりかねないが、敵対するサマリア人の愛を説いたイエスを想うと、その教派は違う気もするし、仲間作りよりも立場の違う人たちと関わり合うべきだとも思う。その一つが恋愛。男女は何かと違うから。
明治の日本では役人主導で、日本独特の仲間関係が説かれ、軍人に広まった。組織重視、女性を下に置く。特に少女人権無視。
例の教派そのもの。確かに、パウロの内向き姿勢は問題あるが、厳しさに欠けるなど、それともちがうと。当時の日本役人の教えをパウロ書に当てはめ、戦後も続け、しまいはレイプに至ったと。
厳格にパウロ書行うならば、僕はそこには行かなかったですよ。
明治に書かれた、樋口一葉著・たけくらべ。現代に当てはめれば、少女虐待。明治はそれが当たり前だった。
集団隠ぺいまで。牧師に限らず、その教派は本当に明治の発想だと思いたくなる。
牧師たちは戦後になり、昭和天皇の戦争責任追及しているが、遅すぎるし、レイプや隠ぺいしてのどんな戦争責任追及はおかしい。戦争の時はレイプもつきものだし。その教派は戦後も戦争の種を作っていた。つぶすしかないね。
その戦争責任追及は偽善だね。本気なら、日清戦争から反対するわけだから。