友について考えた理由だが、昔お世話になった人がその後は熱心な無教会伝道師になり、FBで再会。この夏の無教会系の集会から僕は自己紹介文を皮切りにその教派向けの手紙や投稿文を書くことに決めたわけです。今の僕の身体状況を理解していただけば、集会に連れて行ってもらうこともあり得ます。どんな人脈もできる時は、何かのきっかけで一気にできるものですからね。そうすれば、自然に友人もできる。それゆえ、友について考えたわけです。
福祉や身障運動からは友人はもちろん、つながりもできにくい。それらはできても早く縁が切れる。なるほどねえ。福祉は人々が安心に暮らすためのセフティケア。それ以上のものではなく、人はつなぎません。身障問題は普遍性がない。盲人の問題は脳性麻痺者、ろうあ者、ハンセン氏病元患者などには通じないし、脳性まひの問題は他の障碍者には通じない。脳性まひ者同士、元患者同士もそう。障碍もつなぎません。
80年代もそう考えて、つなぎの神を求めて例の教会に行きましたが、なぜか、そこの神は福祉以上に人をつながず、ケンカも非常に多く、牧師たち含め、酒依存も多いなど、おかしかった。聖書ではなく、教会組織の話ばかり。やめたわけです。今思うと、そこは教会組織=神と明治以来誤解したままだった。カトリックの場合、一番上に神があり、その下に教皇や教会があるという見方ですが、それとも違うわけです。まさに旧約聖書とイエスが否定した「地上の神」であり、偶像崇拝。統一教会同様のカルト。人はつながないわけですよ。
事実上の無教会への改宗。また、そこへの投稿は生まれて初めての公的文になる。私的文のブログとも書き方が違ってくるわけです。