光明養護学校の同級生にしろ、その後に出会った多くの人たちにしろ、結婚にあこがれを持つ。寝たきりや全身まひの者でさえ。僕もそうだったが、その何を求めているのか。不思議に思い、考えてみた。
「新婚前後の熱く、深い愛」が多い。中には、子供作りたいからと言っていた例もあるが、それは少なかった。ドラマにも出てくるような熱々の愛を求めて。それが愛の到達点だと、世界中の人たちが思い込んでいるようだ。思い込みは本当にそうなるらしく、かなりは本当に新婚愛がピークで後は冷める例が多いし、それが続く例も二人や家族止まりの小さな愛のままが多い。
でも、恋愛とかエロスには本当は到達点はなく、二人が大きく、深くしようと思えば、アガペー、菩薩愛、人類愛、生命愛にまで大きくできるわけである。結婚しようが、しまいが関係なく。旧約聖書の雅歌などに素晴らしい恋愛詩が載っているのも、そのような理由かもしれないと思うわけだ。
まともな恋愛は人種、障碍などの壁を超える。アメリカでは人種間、ヨーロッパでは障碍を持つ人と持たない人の愛が盛んだと聞いている。後者は大体結婚はせず、愛だけを追求する例が多いが。少なくとも、寂しさいやしのため、仲間を求めてのカルトよりもマシである。アメリカでは後の離婚も多いが、数年でも愛を作ったことに価値があるわけである。離婚も罪ではないだろう。