1970年代の首都圏にあった身障団体は大体が身障者の仲間意識を拠り所にしたが、中には会員の思想や行動も統一しようとした。考え方の違うメンバーは皆で徹底的に叩かれる。ナチスみたい。
そのような会の元会員で非常に叩かれた二人の話も聞いた事がある。どちらも大変傷ついていた。身障会が怖くもなっていた。気の毒に思えた。身障者も一人一人脳は違う以上は、多様な考えがあるのは当然なのに。おかしいと。
根にはこれも猛烈な寂しさがあると思う。障碍に限らず、すべての仲間意識は上べだけだが、それゆえ、それを拠り所にする集いはやればやるほど寂しくなるが、誰もそのメカニズムは知らず、もっと深い仲間意識を求めて、思想や行動統一まで至ると。教祖こそいないが、邪教と同じでもあるわけ。身障者は恋愛対象にされないことが多いから、その寂しさも拍車をかける。まさに、アリ地獄。
その恋愛も仲間関係から離れて、個人と個人で男女が付き合わないと出てきませんよ。そのほかの愛や友情も同じです。
僕が入っていた身障会は思想統一までは至りませんでしたが、仲間意識を拠り所にするなど、危うかったです。早く潰れて良かったと思います。以上の構成員も本当に仲間意識を求めていたのか、非常に疑問です。障害の有無に限らず、仲間意識を強く求める人たちは酒を多く飲む傾向があります。ただでさえ体も弱い以上、以上の構成員は酒で体を壊し、早く他界した例が非常に多いわけです。
仏教でいう所の無明。仲間意識は誰も求めていない事に気が付かない事はおそろしいですね。