何故、多くの人たちは恋愛を求めるのだろうか。その何が魅力的だろうか。自分なりに考えてみた。
恋愛特有の非常に細かい心のやり取りではないだろうか。お互いの気持ちを本当に細かく察し合う。又は、一方的に察したり、察せられたりする。それだけで人は幸福になるわけである。同性愛の例含めて。僕は同性愛ではないが、バカにしてはいけないと思う。
既婚者や高齢者の恋愛も以上だろう。既婚者だが、かつてはあった以上のやり取りがいつの間にか、なくなり、寂しくもなったところに、気が合う異性が現れて、恋に落ちるケースも多いかもしれない。少なくとも、マンネリ化した結婚生活よりも魅力的らしい。古典落語にもある通り、昔からあるわけである。
人にもよるが、僕も求愛されただけで、相手女性たちの置かれた社会状況まで考えてしまう。差別があるならば、その反差別の文まで書くわけである。でも、昔、単なる友人として付き合った、福祉会で一緒だったろうを持つ男性の訴えは僕も、仲間の人たちもまともに聞けず、怒られたことも思い出される。友情とは何かは難しい問題だが、少なくとも酒飲んで仲良くなっても、細かいやり取りはできないわけである。また、以上の事を島田の身障園生たちは知っていたら、ダメだと思っても恋文書いたり、随筆にその願いを書いたのも当然である。いつか、また身障園生のそのことを小説に書きたい。(ちなみに、そのろう者との関わり、理解に限らず、恋愛に関係なく、細かい心のやり取りが必要な場合は、聖書や仏典の大きく、深い愛が必要。その福祉会は、友人=仲良くなれば差別も消え、問題は解決するという考え方だった。それも大間違いだった)