日本では、一昨年の京都アニメーション放火事件以来、「死刑になりたいから」という理由の若者による虐殺事件が多発している。僕も最初は「死刑になりたければ自殺すれば良いのに。多くの他人を道連れにするのはおかしい」と思っていた。でも、犯人はいずれも20代の若い世代であるが、彼らの小さい時からの生活を察している内に、そう思っても仕方ない事があるのではないかと思うようになった。彼らは小さい時から楽しみと生き甲斐に無縁だったかもしれないから。その前に1956年に生れた僕の小さい時からの事を少しだけ話そう。
まず、食べ物関係。1960年代の日本はまだ食が貧しく、鶏肉とバナナがご馳走だった。僕も特にこの2つが一番おいしいものだと思い、それらを食べる日はご機嫌だった。70年代はそれが牛肉とメロンに移ったが、昭和=1980年代までは、ご馳走なるものは滅多に食べられない点では各世代共通していた。また、もう一つ、これも食べ物に関係する事だが、当時は毎日家族で食べるのが当たり前だったし、他に学校関係の仲間での忘年会や新年会で母親と児童たちが一緒に会食することもあり、これも楽しい思い出になっている。食べ物以外でも、1日30分だけ放送された民放のアニメや15分間のNHKのひょうたん島の人形劇も楽しかった。70年代後半以降は、繁華街にゲーム機も置かれ、僕も時々して楽しんだものだ。
でも、時は移り、平成=1989年以降。スーパーマーケットが発達し、ご馳走も安く大量に売られる。マンゴーやパパイヤ、フォアグラ、キャビアでさえも。それらをそれまで食べられなかった世代は非常に喜んでいるが、その中で育っている子供たちにとっては何だろうと。例えば、マンゴーが好きな子は毎日でも食べるわけだから、ご馳走だとは思わなくなるのではないか。次第に飽きて、好きだったものも嫌いになる。おいしく感じる食べものがなくなり、生きるための義務として食べるようにもなる。しかも、社会崩壊も進み、学校関係での忘年会みたいな事もない。なおさら、食事は義務にもなる。また、今はITでいつでも好きなだけアニメも見られるし、ゲームもできる。僕も80年前後にゲームをしたが、3年くらいで飽きていた。今はゲームには関心もないわけである。ならば、子供の時から毎日見る・やるをすれば、アニメも、ゲームも飽きてしまう子も多いと察している。かと言って、ふれあいが減った以上は恋愛の楽しみもないだろう。学問、宗教、芸術にも楽しみや生き甲斐も見出せない。
ならば、自分の人生はもちろん、社会自体も「無価値。消えれば良い」と思い、まず放火して、社会を破壊し、自分も破壊しようとしたとも考えられる。ヒットラーや麻原も最大に悪いが、それらとも違うものがあるように見える。自分や社会に価値を感じなくなっていた人は少し前までは新興宗教に行っていたが、それらの情報もネットで早く知り、飽きると言おうか。僕の察した通りならば、極めて難しい心理があるし、死刑で解決できる問題でもないわけだ。
さらに言うと、食べることやゲームみたいな遊びが人間の生きがいになるだろうか。その事も問われている。「うまいものを食べて、楽しく」という文明価値観が問われているのだろう。新しい文明が起きるまで、そのような意識は社会にあり続け、同じような事件も今後も世界各地で出るかもしれない。まさに「文明の膿」。膿は出し切らないといけないわけである。
コメント
おさる
2021年 11月12日 12:19
1960年代 思い出した
肉は鶏肉が一般的
飼ってる鶏を絞めて食べるのが一般的だった
冷蔵庫もない時代だったから 食べられるは少なかったぁ^^;
あとは クジラの肉が多かったですね
トシコロ
2021年 11月12日 14:59
>おさるさん
僕は62年に小学1年を迎えましたが、当時は給食にクジラも。アレルギーで食べらない子もいたようです。64年からなくなった。オリンピックのせいもあるかもしれませんね。
コメント、ありがとう。