1980年前後の福祉関係。「ボランティア活動や福祉活動を通して恋人を得ようとする人たちが多い」という伝道師や福祉専門家の指摘を僕も多く聞いたし、身障ミニコミ誌にも指摘されていた。それで福祉活動に身が入らず、端から潰れていった面もある。若い時の僕もそのような傾向があったから、はっきり覚えているわけだ。あるいは、日本のキリスト教関係もそのような面があるとよく聞く。もっと大きな事として、1989年のバブル経済崩壊まで、独身女性のかなりは「会社の仕事を通して恋人や夫を得る」ことが当たり前になり、しかも、福祉関係とは違い、指摘も批判もされなかったわけである。これでは仕事をまともにやれるはずもないわけだが。
一方、島田療育園や多磨全生園の職員さんたちはそのようなことはなかった。仕事一途だった。ハンセン氏病関係のホームの職員さんたちは今でもそうであるが。良いことは伝えたい。
話を戻して、そのような曲がった恋人の求め方はずるくておかしいと、皆様も思うでしょう。それでは恋人も、活動も両方得られないわけである。宗教関係ならば、信仰も得られない。大体、それでは個性も魅力も生きないし、異性に何も伝わらないわけである。恋人が仮にできても、続かないと。その他、「友人になりましょう」と言って異性に近づく例も同じ。恋人にも、友人にもなれないと。詳しくは書かないが、そのような事ばかりして、60台になっても独身で非恋愛の五体満足の人たちも僕は何人も知っている。結果が良い訳もない。
とは言え、結果がいくら悪くても、自業自得でもないと僕は思う。元々男女交際自体を知らないから、以上にもなるわけである。
例えば、メールでも良いから、「おはよう・こんにちは・おやすみなさい・ありがとう」のあいさつを常に重ねるだけで良いわけである。小学1年の時を思い出せばよい。そのようなあいさつから学友とふれあいができ、友人になれたではないか。これが「ふれあい」である。人間関係の基礎である。異性間もそうだし、何かのあいさつメールが異性から来ることは特にうれしいものである。僕もうれしく思う。どんな愛の言葉よりも。女に持てようとボランティア活動して格好よく見せようとした男を僕も教会関係で見ているが、格好よく見せたら、むしろ、逆効果である。自然体のふれあいだけで良いわけであるが。
以上は「ふれあい」自体を知らない人たちが多い今の冷たい社会の一端に過ぎない。今日は広島に原爆が投下された日だが、「ふれあいも知らない」人たちが19世紀以来多いことも戦争の根の根だろう。真の平和な社会は、そのまま好きなだけ恋愛もできる社会だと僕は見ているから。また、ふれ合う事こそも平和運動の一つだし。
大いにふれあいましょう。