異性を好きになる。気持ちを伝えても恋愛関係にはならない。又、両方が好き合っても、愛しても恋愛関係にはならない。それは共同想念が作り出すものだから。結婚はもっと強い共同想念が作り出すもの。
想念は英語ではイメージ、フランス語ではイマージュ。特に、後者は深い意味。深層心理まで及ぶ心の働き。理性だけの理念とは非常に違う。大体、人生を変え、作るのも想念の働きだし。理念にこだわると、想念の働きができなくなる。その結果、人生を変えられず、自滅した旧友も多い。ならば、恋愛想念、結婚想念などは持ち合えるはずもなく、非婚も当然。僕も想念を持ち合える人が非常に限られていた。
元々はどの宗教も想念の持ち合いが目的の一つだった。だが、次第に理念化した。僕の行った教会関係もそうだった。洗礼時には「〇○問答」と言う、カトリックやルター派との違いを述べた本を読ませられた。中身はなかった。カトリックやルター派の批判をするために洗礼受けるわけではないから。受け入れなかった。
ただし、複数の教会で十字架を見つめられたのが僕は良かった。そこで理念・理性をはるかに越えたものを毎週心に刻んだ。その効果は当時は判らなかったが、今気が付くに大きかった。信仰想念を得たと。恐らくは牧師たちも持てなかったものを神から与えられた。
それと、聖書を読む事は他の本とは違うね。聖書のどの短い言葉からを通しても、神への想念を得る。これが目的。コーランや仏教関係、歎異抄も同じだが。一緒に誰かと読めば、共同想念に。心通じるわけだよ。ただし、聖書を理念的に読む人とは心通じない。それで縁が切れたルター派の旧友もいた。