TVや新聞で「三密はやめましょう」と毎日目にする。そうすると、感染の事とは別に、これまで三密で人間関係も煩わしかった事にも気が付かされた。それ故、僕もヘルパーさんに対しては勿論、それとは関係のないはずのネット友人たちにも離れた、「社会的距離」で付き合い、コメント文も離れた感覚で書く事が僕は多くなっているし、恐らくは世界中にそのような人たちが増えているはずだと察している。不思議に思う事があった。コロナ前は特に気に留めなかった人の投稿の文や絵などが魅力的に見え始め、その人の人格的な魅力までもが見えるようになった。これからはそのような相手が非常に増えてくるだろうし、同性・異性に関係なく、魅力も見え合えるようになりそうだ。異性で独身同士ならば、恋愛になるパターンである。それも感情のもつれがない、外向きで楽しい恋になるわけである。そこから、若い時の事も思い出した。
身障会、福祉会、親睦会など、多くの会を僕も経験したが、何故か、次第に内輪話ばかりになり、理屈も多くなり、心も通ぜず、誤解も増え、最後はケンカか落ち込みで終わるというパターンだった。「寂しいから」異性を求め合う例は多いが、男女交際はそのパターン。多くの本に「異性の魅力」と書かれてあっても、僕含む、構成員は誰も判らなかった。非恋愛者・非婚者も多い。今も独身の健全者の旧友たちもいるわけだから、何も僕に絡む身障者差別のせいでもないだろう。謎のままだった。以下のメカニズムだったようだ。
どの会もほとんどが「三密」で集った。会合・コンパ・合宿やキャンプと。「仲良くする」が目的だったそうだが、本当に狭い狭い所ばかりだった。皆、他人を近視眼的に見ていた。そこがいけなかったと言おうか、それでは他人の魅力などは見えないわけである。ところで、モナ・リザでも、ゴッホの「ひまわり」でも、何でも良いから、絵を見るがよい。絵を近視眼的に見ればどうなるだろうか。モナ・リザの鼻とか、ひまわりの花びらみたいなごく一部しか見えない。それで、その絵の魅力が判るだろうか。判らない。どの絵も、ある程度離れた距離で、全体的に見なければ、その魅力は判らないのである。ならば、人間の持つ魅力も同じではないか。昔の僕などが経験した人間関係もそのようなものだった。対異性で、肉体以外の、精神的・人格魅力が見えないで、どうして恋愛が生まれようか。又、同性の人同士の友情も同じである。友情も本当はできないパターンだった。最後は「ケンカか、落ち込み」になったのも当然だったと。
予定としては、政治や家族、学校の事まで書くはずだったが、今日はここまでにしておく。これが現代人の非友情・非恋愛・非婚・離婚の原因の全部とは言わないが、かなりの日本の人たちは以上の状況があるのかもしれない。コロナに関係なく、この辺で三密は終わらせた方が良いかもしれない。しかし、以上の若い時の僕の状況が判って良かったし、三密とは本当は関係のないネット関係でも、僕も今までは他人を近視眼的に見てきたし、同様の人達も非常に多いわけである。それも終わらせた方が良いかもしれない。森友学園とか、検事定年問題の根の一つにも以上の問題はありそうだし。それは別の時に書く。