日本の有名な女優の小倉優子さんが離婚。元夫は「顔も見たくない」という。プライベートな事は書けないが、非常に魅力的な人たちに違いない二人が。魅力でかつては近付き合い、結婚に至ったのに。かねてからの僕の「魅力は人を結ぶのか。結ぶものは何か」という問題にも通じる訳である。
以上のような結婚、離婚例は巷にもあふれている。僕の縁者にもたくさんいる。又は、男女双方が魅力を感じ合いながら、恋愛関係だけに終わったり、恋愛にもならなかったり。僕も過去にはそのような経験も多かった。更には、男同士、女同士の交友も同じで、友人にもなれない例も多い。身障者と健全者との関係とか。ハンセン氏病元患者と、その他の人達との付き合いにも目立つ。何かの魅力では、人は愛も、友情もできないわけである。
最近、コロナ問題でかなりの人たちが神経質になっている。コロナ・ウィルスに侵され、肺炎になるとそのまま死ぬ例が多いわけだから、恐い。そのような話を僕にしてくる人たちも多いが、それは「死」を意識しているからだ。だから、話も真剣である。僕も真剣に返答。詳しくは書かないが、それで意志疎通が極めて良好になった例も多い。かつてなく、良好。相手は僕の状況も超親友のように理解もしてくれている。有難いとも思う。死を下敷きとした関係。今の僕の全縁者と、コロナと言おうか、それ以上に「死」を強烈に見つめ合い、実感する関係ができたら、僕の人生も急速に改善する。男同士ならば、相性に関係なく、かなりの親友になれるし、異性の中からは本当に結婚相手も出て、急速に結婚生活にも移行可能にもなると。ならば、僕や、かなりの旧友たちの長い独身生活も、死の見つめ合い・実感し合いの欠如になってくる。「死」を通さないと、本当に友情、恋愛、結婚、介護のやり取りも出てこないわけである。
昔、一牧師が「死を意識しないと、信仰も、人生や愛も生まれない」と言っていたのを覚えているが、その通りだと。大体、全ての宗教は「死」が根にあるから。キリスト教の場合は、それがイエスの十字架上の死に集約されている点が特色だが。歎異抄もたくさん死の事が書かれてあるし。でも、キリスト教の場合、イエスは2000年前の人だから、実感が今では乏しく、教派の別なく、「魅力」に神を見出そうとする例が多い。因みに、「個人魅力」も実際は死を下敷きにしないと出てこないものだろう。
コロナ・ウィルスは恐ろしく、退散を願うばかりだが、現代では忘れていた事を色々気が付かせてくれているわけである。