今回のコロナ・ウィルスの連想。「死」を連想させる者に会いに行く事は物凄い衝撃、恐怖感の他、快楽もある。大体、かなりの快楽の根は「死の連想」だから。又、キリスト教のできたのも「イエスさんの殺害」がそもそもの始まりだし。キリスト教が今まで続いている理由の一つもそのような事だという説さえあるわけだし。
ならば、島田とかハンセン氏病関係に行ったボランティアの中にも以上のような例はあったかもしれないと気が付く次第です。勿論、福祉や人権などの問題意識で行ったボランティアもかなりいた。そのような人たちは尊かったと思います。でも、「意味不明」で行った人たちも多い。自分でも不明。おかしかったわけです。
特に、僕の行った全生園よりも、障碍程度が多い、ハンセン氏病の琉球の療養所に行った人たちに「何故、そこに行くのか」と聞いた事がありますが、逆に「それはきつい質問だ」と言われ、変に思った事もあります。特に、カトリックやルター派の人たちほど、理由が判らないまま行く。あるいは、「イエスの死」を想うと出てくる死に通じる快楽に通じるものがあるから、そうなるのではいかとも思いたくなるわけです。
また、今思うと、島田に行った人たちの中にもそのような例がかなりあったと思うわけです。
世田谷ボランティアの中には、在宅の脳性まひ者に以上のような感覚を得た例もあったかもしれません。
因みに、「死の連想の快楽」はデズニーランドなどの遊園地や、怪談、アダルトにも言えると思いますが、今のコロナ・ウィルスはそれよりも規模が大きく、はるかに強い。ならば、今後は廃れると思います。見えていますよ。疫病は困りますが、社会問題のアダルトが消えるのならば良い事だと思います。