あれから気が付きましたが、知的障碍関係の描写ができるようになった理由は「愛の広がり」。かつての僕の愛情は身障関係だけでした。だから、島田関係でも知的障碍室に行く人たちとは話も噛み合わなかったわけです。40年前の僕も島田の身障関係の人たちの描写筆記はできましたが、知的関係はできなかった。無関心だったからです。
ところが、昨日は書けた。いつの間にか、僕の愛情は身障関係を越えて、職員、更には、知的障碍とか植物人間みたいな人たちにまで広まっています。
文を書く極意は「愛」ですね。技術的なものではないようです。愛をベースに、集中力も込めれば、書けるわけです。かつての僕の愛は身障関係に偏っていたわけですね。
思えば、誰でも知的障碍的なものも持っているのではないかと。老化で認知症になれば、知的障碍者と同じになるわけだし、普段でもそうかもしれない。具体的にはまだ話せませんが。アインシュタインが6歳の時に知的障碍だと診断されたようでもあるし。
そして、これも僕にとって重要な事ですが、今までの僕の非婚も愛の狭さも絡んでいたと。島田の身障者しか愛せない狭い状態ならば、異性を愛する事は不可能だし、特に知的障碍関係も愛するような女性たちとは縁はないわけです。又、全ての人達に知的障害的なものも元々あるのならば、僕が出会う全女性もそのような面があり、それへの愛も中途半端になってしまう。もっと大事なこととして、僕自身も知的障害的な要素を含んでいるため、自分自身も愛せない事にもなっていた。
とにかく、良かったわけです。