1977年5月。僕の所属していた福祉会主催の小林博士の講演会で。会話はできなかったが、姿を拝見し、講演も聞いた。大柄な身体で元々はものすごく体力がありそうだったが、69歳になられていた77年は見るからに活気がなく、痛々しそうな表情だった。話の内容は僕も一部だけ覚えているが、要領を得ない話し方だった。
「職員たちを御殿のような所に住まわせてあげたい」
「療育関係の仕事をしていると、宗教的な気持ちになるね」の2つの言葉を覚えている。いずれも小林博士の心の内面から出た言葉だから、僕は解説できない。但し、後年の僕が知った事だが、後者の「宗教的な気持ち」はどのようにも取れる言葉である。大体、宗教とか信仰は観念は一人一人違うし、同じ人でも時期によって変わる。お国や時代によっては、もっと多様な意味であから。
因みに、今調べたが、その3年前の園長退任の弁では、自らの仕事を「ボランティア活動に過ぎなかった」と強く反省していたわけである。その時にマスコミに「疲れました」と言ったのは有名な事である。
その後、例の「子宮切除発言」にもなるわけだが、上べはナチスと似ていたが、ナチスは当時の優生思想が絡んでいた。そのような思想ではないわけで、本当に疲れ切り、紛争まみれになった島田療育園に「投げやり的な気持ち」になったわけだから、そこから出た言葉ではなかったかと、今の僕は見るようになったわけである。やはり、職員たちの中に投げやりになり、虐待やお仕置きに至った人たちも現れたように。人間は投げやりの気持ちになると、どんな事でもする面があるわけだし。
もし、小林博士が最初から無気力な人ならば、島田療育園なるものは成立していなかったわけである。
77年5月の僕は島田療育園の植物人間室には行ったが、まだ身障室には行かず、僕の運命に強い影響を与えてくれた3人の身障園生にも出会っていなかった。だから、博士の話の理解も余りできない時期だったが、今はこうして僕なりの仕事にも関係している。10年年長の従兄弟の川本兼氏は、学生運動から人権思想関係の仕事に入って行ったが、僕も若い時の活動が自分なりの仕事になりそうである。人にもよるかもしれないが、若い時の何かの活動はその人の人生に強い影響を与えるものだとつくづく思う。