1977年。医者でもない僕がハンセン氏病の多磨全生園に行ったいきさつを話しましょう。当時の僕がいたVYSで。会員の一女性がそれを紹介した所、VYSで会合の話し合いだけで行ったり、交流合宿をしたり、ハンセン氏病を世間に啓蒙する事を決定。何もそれに限らず、VYSは何でもそのような活動決定をする面が強かったわけです。皆も、僕も考える間もなく、決定。夏に交流合宿がありましたが、実際は皆も、僕も問題意識どころか、同情も持てず、大体は元患者たちや職員たちと話も合わず、トラブルも。「大勢で押し掛けられて迷惑だ」と多くの元患者と職員たちは激怒した。そうでしょう。紹介した女性は責任者格と見なされ、後で元患者からごってり怒られました。僕はたまたま気が合う伊藤まつさんと出会えたから、その人が天国に行くまで付き合えてよかったわけですが。VYS内のハンセン氏病の話し合いも、時間がなかった関係もあり、抽象論ばかりで各自の意志疎通は不可能でした。思えば、そこでVYSは終わりました。更に、そのスタイルで、S園に行ったり、最後は教育問題に口出しし、養護学校の件で文部省とケンカの手前まで行って、本当に潰れたと。僕もハンセン氏病についてはよく判らないままです。そうですね、医大生でもないから。 会合の場で即決がダメなら、十分時間を掛けて考え、問題意識がある人は論文書けばよい。ハンセン氏病も論文でないと判らない問題です。それを特に役員たちが会合の場でべらべら話すから、余計判らなかった。考える事もなく、常に即決ばかりしていると考える事もできなくなる。果てに本当に放浪者になった男性が僕の知る限り、二人。誰とも付き合えなくなったとか、新興宗教に入った女性も出ている。全生園に行った後、在宅の一身障者が親が亡くなり、介護を求めてきましたが、「同情しても始まらない」と言って相手にせず、僕はVYS内でケンカしたこともありましたな。今思うと、それも会合で即決ばかりして、考える力が衰えた結果なんですね。以上です。
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まつさんとの関係は本当に「偶然」のもの。全生園行き自体は僕も問題でした。因みに、S園関係は僕は自分の意志で行った。その分、たくさん見れた。今も詳しく書けるわけです。書くなら、僕はS園ですね。