ブログの通りかも知れないね。別に科学知識の普及や資本主義の問題でもなく。確かに、宗教戦争や権威主義などの問題はあったが、中世の教会や寺は未来志向だったから。地の果てまで福音や仏法を伝えるなどの目的もあった。でも、今は未来志向にはなれないわけだから。
確かに、未来志向にならないと人は結びつきもできず、コミニティにもならない。僕が昔行った教会関係がそうだった。いわゆる友情みたいなものでは、コミニティはできないわけ。新約聖書にも最後の所に、書かれた当時の未来絵図としてのヨハネ黙示録があるし。それは予言ではなく、指し示した未来のヴィジョンだと。でも、今の教会は、黙示録抜きのものになったから。これでは、潰れるよ。「カトリック信徒の自殺が今は増えている」という事も聞いたが、どうしてもそうなる。未來に希望を持てないと、こうなるからね。神父、牧師、坊さんとどれだけ気が付いているやら。「仲よくなれば、コミニティは成立する」と言っていた牧師も数人いたが、だからその教派は衰退していると。確かに、その教派の若者たちも未来は語らないわけだし。
以上から、隣人愛とか菩薩愛みたいなものも、未来志向である事が判る。単なる優しさとか、仲良し関係でもない事が。特に、未来を見据えない優しさは偽善になっていくのではないの。自分の事とも遊離して。ろくな事はないと思う。それに多くの宗教家や信徒たちが気が付かないと、教会も、お寺も世界的に潰れるよ。資本主義の動向に関係なく、潰れる。資本主義よりも崩壊の可能性が教会とお寺は高いだろうね。神仏は人々が未来を絶えず作る事を求めていると言える。聖書や歎異抄からもそのように読み取れるし。コーランもね。