先のブログから封建時代の事も少し思ったので、書きます。
確かに、封建制時代はどこの国もイエ中心の社会で、結婚も大体がお見合いでした。イエの繁栄のために仕事をして、結婚もした。子供の教育も親か、親の決めた家庭教師みたいな人が教えていました。どの国の時代劇を見てもよく判りますね。
それでも、人々はイエ単位で結びつき、それが長く営まれていた。現代とは違い、イエが未来を作り合う活動主体になっていたからです。他にあるとして、宗教関係だけでしたね。
古代から中世に掛けての各イエは大家族制で、その目的はイエが富栄える事がほとんどでした。現代の会社の役割を兼ねていたようです。イエに尽くすか、宗教関係に行くしか人々の生き方はなかったわけです。他は乞食になるだけ。また、女性の人権は非常に無視されて、子供を産む機械みたいな感じでしたが、結婚前も、嫁した後も、イエに尽くすしか生き方の選択肢もないし、生き方を考えられるだけの教育も受けていない例がほとんどだったので、それしか知らなかったため、女性たちも泣きながらもそうしたわけです。忍従しながら。
勿論、大家族のボスになる為の争いは多かったですが、大家族制はずっと続いた。それが近代になり、交通機関が発達して、人々が出会い、また、産業も発達して、会社も生まれたので、未来志向の場は会社関係に次第に移り、大家族制度はヨーロッパから次第に衰退した。日本でも明治維新後から少しずつ衰退し、戦後は新憲法もあり、消滅したわけです。
例えば、会食とか遊び、会話をするみたいな関係は親戚間で現代でもあります。それは構いませんが、もう一族間で未来志向の事業をしたり、生きていく事もないため、大家族制に戻る事はあり得ませんね。人間は未来志向でないと共に生きる事はあり得ないでしょう。(昔のもう一つの未来志向の場だった宗教関係が現代になり、衰退の一途をたどっている事も以上の理由だと思われる。「未来志向でなければコミニティもできない」事に気が付かず、深く悩み続けている牧師たちの姿も見てきた事がある。当時の僕も気が付かなかったから、助言はできなかったが。無論、仏教のお坊さんたちも同じだと。福祉関係でもそれに気が付かず、単に友人になったり、仲良くすればコミニティはできると構成員たちが思い、潰れていった福祉会も複数見てきた)。