絶え間ざる「人権と人格認め」追及が目的なのではないか。先ほど、紀元前22世紀ごろのシュメール法典と、その後を継いだハンムラビ法典をネット検索してみた。王様の統治の根拠などもあったが、それと共に「孤児、寡婦」への正義を貫く事を王様の義務とされた。現代流に言えば、生存権の保証に当たる。まだイエス・キリストも、シャカも現れなかった時代にこのような発想が存在したとは、注目に値する。後のユダヤ王国などではその観念が更に発達し、盲人などへのケアも盛り込まれたわけである。
「憲法や法律はしょせん権力者が人民を利用するもの」という見方もいつの時代でもある。確かに、ヒットラーも、スターリンもそうした。そのように考える人たちの気持ちも判る。でも、憲法や法律なしで、何ができるのだろう。人間たちは本当にバラバラになり、特に、児童や障碍者、高齢者などは適切なケアや教育も受けられず、生きる事もできなくなるわけである。それは戦乱が多かった各地域の歴史を見ればわかる。戦争多発地域では、どうしても憲法・法律も及ばなくなるから。内戦が続いた少し前のバルカン地域やレバノンでは、子供たちもまともに学校にも行けなかったから。そのような中で育ったかつての子供たちは今はどうしているのだろうか。
それと、人格・人権の絡みからどうしても思うのがナチスである。彼らは本当にそれらをどのように考えていたのか。確かに、彼らも追及はした。でも、それはドイツ人に、それも遺伝子などが健全なドイツ人に限られていた。ユダヤ人は勿論、他の民族の人格・人権は考えていなかったし、ドイツ人でも精神障碍者や遺伝病の人たちの人格は無視し、人権も考えなかった。「見方が非常に狭かった」から、あのように狂ったようにもなったのではないだろうか。そして、そこから、自分の民族や健康な人だけの事ばかり考える事の恐ろしさも出てくるわけである。どの国、民族もそのような事は繰り返してはならない。これからは人格・人権の考えを世界的に押し広め、地球憲法も制定しなければ、世界平和も来ないし、また、「歴史」はその方向に進んでいると信じたいわけである。