結論から言えば、できないと今の僕は思う。40年前に、児童・障碍者・ハンセン氏病関係の各福祉の事を論文化して、世間に伝えようとした人たちと接してきたが、彼らも中途で投げ出した。また、僕自身もS園の事が気になり、数年前にはブログを使い、レポート形式のまとめ文を書こうとしたが、多くの人たちには伝わらなかった。ムリである事に気が付き、実録小説化して、小説名の林田博士を中心に職員たちの会話や心理描写などから、その心の再現を試みているわけである。やがては、身障園生たちの心の再現もしてみたいと思っている。また、ハンセン氏病後遺症を持っていた伊藤まつさんの人生の論文化も不可能で、こっちは随筆形式でこれからも心の再現に努めたい。
以上、2つの例に「心」が共通してあるように、人間は心を持つ動物だから、例えば、化学実験レポートのように、論文化は不可能である。個人にしろ、それが集まった社会全体にしろ。それ故に、昔から多くの作家たちが心の不思議さを求めて、小説とか随筆、詩などを書いてきたのではないか。更に深く考えると、「命」も論文化は不可能だと思う。例えば、「カエルの解剖の観察レポート」では、内臓や血流みたいな事は書けても、カエルの持つ「命」の事は出てこないわけである。それは生物学の勉強にはならないと思われる。
19世紀ヨーロッパには、人間や生物を論文化しようとする動きが流れとして強まり、その果てに20世紀前半のドイツにナチスが現れ、ヒットラーたちは人間や社会、民族を論文形式で割り切ろうとした。その結果、心・命・愛などが抜けた冷たい見方になり、あのように戦争や虐殺を産んだ。人間などを論文化しようとすると、本当に「心」などが見えなくなるようである。人間は論文化みたいな見方をしたらいけないし、全生物にも言える事だと思う。また、ナチスみたいな社会運動はしなくても、人間や社会の論文書きにこだわれば、まともな文章は書けなくなるのかもしれない。自分にも跳ね返ってくると思う。
以上、僕も論文化の限界を以前は感じたから述べたわけである。