東日本大震災記念日に合わせたものです。今も被災地では、多くの人たちが住まいなどで御不自由を強いられています。復旧はまだ遠いわけです。その一人のフェイスブックの被災地の友人の投稿からも、高齢者から小さい子供まで御苦労している事がひしひしと伝わってきます。でも、沖縄の基地の問題にも言えますが、東北地方以外に住む人たちは震災の事をどれだけ今は実感なり、考えているのでしょうか。忘れやすいと指摘されている日本人の国民性の通り、震災の事も忘れるような事があってはいけません。第一、忘れたら、そこからの教訓も得られないわけですし。
さて、大震災直後は「絆」という言葉が流行りましたね。絆を深めて助け合い、復興しようと。「絆」という言葉も今は余り聞かれなくなりました。今の僕が振り返り、一つおかしい事に気が付いています。それは、その言葉を使うどのような人たちも、テレビ関係も、新聞やネット関係も、政治家たちも、「絆」とは何か、具体的な説明がなかった事です。僕の見聞きした範囲、そうでした。復興ムードを求めて、そのような言葉を使ったのでしょうか。とにかく、言葉はどのようにも取れるから、特徴ある言葉だけでも「説明」が必要だと思います。それが日本中欠けていたならば、ムードだけになり、被災地は取り残される結果になってもおかしくなかったわけです。
「絆」は考えてみればたくさんあります。親子の絆、兄弟姉妹の絆、夫婦の絆、師弟の絆、ヤクザたちもよく使います。あるいは、戦争の絆も世界中にあるわけです。「ゲルマン民族の絆」を強調して、大変な事になった歴史もありますね。「絆」にはナチスの歴史も含まれているようなので、一概に正しい性質の言葉とも言えない気が僕にはしますが。「恐ろしい絆」も歴史を見ると、ナチスの他にもいくらでもあるわけです。言葉の良い面ばかり見ても始まらない気がしますが。
また、絆が叫ばれても夫婦や親子の絆は薄い例が多く、可哀そうな事に、心愛ちゃんは親に殺されました。そこからも「絆とは何か」考えてしまうわけです。
無論、「絆」という言葉は僕は定義などはできません。僕もよく判りません。それゆえ、今はあまり使っていません。その意味は何でしょうか。また、判らない言葉を使う事も、これまた判らない事ですね。