1967年。光明の小学5年だった僕の学年の先生と父母たちが都に介助員制度設立の運動禹をして、翌年に早くも実り、介助員がいらしたわけだ。良かったし、先生と父母のお陰だが、今気が付くに当時の若者の世代感覚のお陰でもあると。戦後憲法を愛して、人権意識も非常に強い世代だったから、福祉関係にも入れたと見る事ができるから。良い時に運動したと。世間、特に若者に人権意識の気風がなければ、本当に介助員は集まっていなかっただろう。
だから、その意味もあり、1930年から50年生まれの人たちには深い尊敬と感謝をしているわけ。、
----------------------------------
映画監督の原一男氏にも配りました。憲法や人権に関心持つと、赤の他人の身障児でも関われるわけです。でも、その気風は受け継がれなかったみたいで、その10年後の若者たちの世代感覚は「仲良くならなければ関われない」が主流だったようです。それゆえ、各会でコンパをして仲間作りに身障者も、健全者も努めた。酒飲む事が仕事みたいに、という落語みたいな事も起きたわけです。仲間外には同情しても始まらないという。だから、ヘルパー制度も遅れました。僕の世代感覚は正しくないと思います。それゆえ、全学連世代の気風を世間に僕は伝え始めたわけです。因みに、「仲よくしないと関われない」感覚は僕と同世代の身障者たちにもかなり見られました。身障者たちもボランティアの事は批判できませんね。また、仲良し関係には本音を隠す面がある。どうしてもそうなる。丸く収め合おうとして。結果、恋愛もできません。そのようなカラクリに僕の世代の身障者たちは気が付いていません。恋愛レスの根は差別ではないわけですが。実際、70年くらいまで、多くの光明の先輩たちは活発に恋愛し、結婚もしていたわけです。障害基礎年金もない時代に。健全者の配偶者が働いて生計を立てるパターンが多かったようですが。又は、生活保護で。でも、70年代から身障者たちの意識も次第に保守化していきました。政治にも無関心。憲法に無関心になるとこうなるわけです。