僕と島田療育園の身障園生たちとは、太く(当時の)身障者の恋愛と結婚という共通の話題と問題意識があったから交友が成立した。やはり、地域の身障会の人たちとも。また、元患者の伊藤まつさんとは、まつさんが一生懸命描いた絵の事が共通話題になり、交友が成立。でも、共通の話題の持てない人たちとは交友不可能。その典型例を話すと、小学までの男の一同級生。クラス会で何度か再会したが、アメリカの本から人口削減論に凝り、その難しい事を手紙に書いてきたが、返事も書けず、交友できなかった。彼は元友人。再会後は友人ではないね。もっと極端な例はカルトに凝り、僕にもお誘いの手紙をくれたこととか。
どうしても友人になれない人たちもいるし、むしろ、多いと思う。誰でもそうだと。ムリして友人にならなくても良いわけだ。
今の恋人たち=僕の事を好きになってくれた女性たちも、現代日本の恋愛レスの寂しさのほか、以上の要素も色濃い。例えば、子供向け文に書いている命尊重とか、聖書で話が通じるとか、哲学や児童福祉の事とか。僕の小説を気に入ってくれて、縁ができた例も。通じる話題がない女性と仮に出会っても縁はできないだろうね。
僕の場合、恋愛と友情は重複もしているが、それでも違いは強く感じます。はるかに前者の方が縁が濃く、相手の事を自分の事のように捉えられます。精神面にも深く、互いにその安定をもたらし合います。
しかし、相手を一人に選び、結婚を意識し合うとその精神的な深さは消えていき、家庭を営むビジネスになるかもしれません。「結婚に飽きた」と言って数年で明るく離婚した女性の声も聴きましたが、わかる気もします。あるいは、新婚旅行後の離婚とかも。