例の教団に大金を貢いだ母親、教団だけを憎んだ息子。どちらにも狭さを僕は感じます。
例の教会に行った僕。それを通してルター派やカトリック、無教会の人たちとも交際ができると期待して行きましたが、その教派の、しかも、同じ教派の人としか付き合わない人ばかり。入門書にもカトリックやルター派の悪口も書かれてある。彼らの見方は島田の身障園生や職員たちよりも狭いわけです。悪口は書かなくても、他の教派も同じだと聞きました。
それから、後年知りましたが、教派の別なく、堅信後は収入の10%を固定献金義務。そのほか、クリスマスなどの多くの季節献金。身障者の場合は障害年金と手当て、高齢者は高齢年金になるでしょう。海外援助にかなり使われるとは言え、何なのかと。経済のことが判らない知的障碍信徒にも当てはめるのはもっとおかしいわけです。健全者でもそうですが、身障者も信徒になるのはかなり金持ちの家の子に限られています。(中世の献金は今の税金みたいに富の分配を果たしていたと思う。でも、今は。飢えた国に援助しても、一時しのぎにしかならないのではないか。飢えは食とエネルギーの世界的分配の仕組みを作らない限りは解決しないと。援助をして、「かわいそうな人にしてあげた」という気持ちになる人もいると聞いたが、その気持ちも何なのか。愛でもないと思うが...)
例の教会は確かにおかしかったからやめましたが、後に別の教会に行きたくないのも、以上2つがある。それを煮詰めたものを今回の犯人と母親に見ているわけです。自分につながっていると。
イエスやマリアの福音とか、仏の慈悲は教会や寺組織に行かなくても、聖書や仏典、歎異抄を読み、真の友人や心の恋人たちと分け合えば、十二分に得られますよ。今の僕は、在日ロシア人の一人と時々イエスやマリアのイコンの画像を分かち合っています。例の教会も、僕の好きな無教会派も西方系でイコンは禁止されていますが、真に祈り合えればそれで良いと思っています。イコンも用い方では、素晴らしいものになりますよ。無論、教会に行きたい人たちは行けばよいわけですが。