1977年。国学院の学生たちとも僕は交流。その一人に聴覚障害を持つK君がいた。彼はその学生を集めては手話会をやりながら、日本における聴障者の非常に悲惨な状況を話していたという。残念ながら、彼のその講演会には行くチャンスはなかったが、当時はテレビも字幕スーパーはなかったし、公共機関も聴障者たちへの配慮がなかった。会社に就職しても周囲の無理解で続かない例がほとんど。低賃金でも。当然、生活破綻にもなる。酒依存症とか。その話は察しがつくが、手話会に来た学生の多くは、遊び感覚で手話をするため、それをK君は許せず、ケンカになったと聞いたことがある。「言葉」の関係から思い出してみたが、恐らく学生の多くもいつも独り言的な話ばかりして、真の言葉は小学時代から発していなかっただろう。そのような人が手話に出会っても、コメディのジェスチャーみたいに遊びにしか見えないのではないか。ましてや、聴障者の悲惨で孤独な現実などは判らないに違ない。
それから35年経て、2010年代。ミクシーのニュースに「北海道で、聴障を持つ男が会社の同僚を殺した」と。鮮烈にその記事は覚えている。ショック感じた。殺人は悪いが、そうなった理由は必ずあるから。大体、意思疎通が極めて悪いと殺人にも至るわけである。昔とは違い、聴障者にも障害基礎年金が下り、テレビも不完全ながらも、字幕スーパーがある時代に。昔とは別の意味で悲しいし、その後もミクシーやフェイスブック関係で「聴障者たちは世間の理解が得られず、孤立する例が多い」とよく聞く。殺人はその最たる例だし。アフガニスタン含め、中東のテレビ番組には必ず字幕スーパーと手話が同時につけられるなど、聴障者たちも世間から当たり前のように理解されているのに。日本は果たしてアフガニスタンやウクライナに援助できるような国だろうかとも思いたくなる。
聴障学校とか、大人の聴障団体は手話と文を通して、真の言葉のやり取りしているわけである。公立学校では会話が希薄になって久しい。大人も独り言の羅列が多い。77年のKも健聴者の人たちに「皆の話は理屈が多くてわからない」と言っていた。抽象的な独り言を指していたわけである。発した本人も判らないような言葉ばかり。それで恋愛もできなかった人たちも多くいるわけだし、むしろ、健聴者の方が言語難をきたしていると言えよう。
最後に、日本発のSNSのLINE。パソコンだけでは登録できない。携帯電話番号も必要。例えば、僕は言語障碍のため、携帯電話はなく、登録できない。同様の聴障者や言語障碍者も。言語と聴覚の障害を持つ人たちが使え
ない仕組みは差別に当たる。法律にも違反しているわけである。聴障福祉が極めて遅れている日本をそのまま表しているようである。世界に広まった時にトラブルになるかもしれない。