その教派の戦後の大罪、僕も一端はある事に気が付き始めています。教会関係に行っていた時に気楽に献金していたからです。その中にはアフリカの飢えの食糧援助に使われる分もありますが、まず、思想が問題。「お金は人と人、人と教会、人と社会や世界を結ぶ」という考え方。それ故に資本主義推進が明治から。元々僕の考え方とは相容れないのに、献金。変でしたね。
その献金で死から免れるアフリカ人がかなりいても、日本でレイプで心が重傷になった少女や女性が多く輩出した以上はその寄付は偽善にしかならないのではないかと今は思います。もっと大切な事は、寄付自体。寄付だけで良いのか。アフリカの飢えはヨーロッパ、アメリカ、共産主義の時からのロシア、明治以降の日本、近年の中国の多くの経済搾取によるものであり、資本主義と、国家資本主義と言うべきような共産主義の経済構造のせいであり、飢えの犯人の一つは日本人。それを推進しているその教派も犯人ではないかと。資本主義と共産主義に代わる世界を生み出そうとしているのならば、寄付も意味はあるが、そうではない以上は解決を遅らせるだけでマイナスではないのかと。これもおかしいわけです。
もう一つ。献金する人たちの意識。大体が「良い事をしよう」か、又は、同情のどちらかです。物事の本質も学ばないで、良い事だと思い、献金。偽善ですね。結果的に悪くなるか、解決を遅らせるのでは仕方ない。「良い事」とは何でしょう。神は万人に沈黙するだけ。人や社会に善人に見られた所で始まらないわけだし。イエスがもっとも憎んだのは偽善者たちだと、哲学者の亀井勝一郎も述べていますし。気楽に献金も偽善につながる恐ろしいものです。
以上ならば、僕も反レイプに一石投じて当然ですね。そうしないと前進できないはずです。