恋愛。恋は相手を恋慕うこと。愛は相手を大切にする・尽くす・喜ばせること。この日本語は明治=19世紀後半に作られたが、非常によくできている。また、江戸時代の恋には同性愛も含まれていた。「慕う」には相手への尊敬も含まれているから、本来は精神的に高度なものであり、文化の一つだと僕も見ている。フランスでは伝統的にそのような発想が強いですね。
小説で僕が再現しようとした例の島田身障男性園生の恋も最初は以上の気持ちだったと見ています。基本はそんなに変わらない。でも、すぐに「結婚生活への期待感」が彼の気持ちに入り込み、取って変わるようになっている。同時にクレージー的な燃え方もしている。映画の寅さんもそのようなシーンが多いし、大体、戦後昭和、1945年から90年にかけての日本人の恋愛はそれが多かった。戦後昭和に青春期を迎えた人たちはかなり経験的に判ると思います。
でも、「慕うこと」には期待感は含まれていませんね。期待が強くなると、慕う気持ちも忘れていくようです。慕いは無私の気持ちですが、期待は自己中心の気持ちだから。両立はしないでしょう。それゆえ、慕いから期待感に変わった時点で恋心は消えている。実質的な失恋をその人はしていたわけです。小説て書いてみて、僕も初めて判りました。島田や福祉をはるかに越えて、20世紀日本社会の問題が見えてきたわけです。
慕うとか大切にする気持ちは人をつなぎ、非常に幸福にします。でも、期待感は不幸になるだけ。今の僕も、僕を慕って下さっている人たちは非常に大切にしたいし、僕も変な期待を寄せたくないわけです。また、中には僕に期待して近付く女性もいますが、そのような人は必ず早く縁が切れています。期待からの絶縁。離婚が多いわけですね。
もうひとつ。慕うとか大切にするという気持ちはクレージー的に燃えるものかね。昭和歌謡曲に歌われたような燃える気持は、期待感からのものかもしれないと気が付き始めています。どうなんだろうね。