77、8年の僕などから。島田、全生園、子供会、身障会キャンプなどの活動を。当時の身障者やボランティアのかなりも似た事をしていた。ある五体満足の男性から僕は「活動だけ外出して、活動ロボットに見える。他のボランティアや身障者たちも」と言って、遊び外出を進めました。でも、行きたい所が限られる。美術館だけ。例えば、映画はいつも見ているテレビと変わらず、わざわざいく必要もない。こんな調子です。
子供の時は遊園地に行くことが楽しかったですね。学校でも鬼ごっこや怪獣ごっこをした。でも、大人になって遊園地に行っても楽しくないでしょう。その後できたディズニーランドをテレビで見ても行く気も全然しません。その代り、子供の時は判らなかった他人の個人魅力見つけやふれあいを求めての活動。遊びよりもはるかに楽しいわけです。確かに、どんなに面白くても、映画館にはふれあいはないですね。子供と大人の感覚の違いはいつも不思議に感じています。
ボランティア活動に行き詰まり、いったんは止めた人もいましたが、数年後にはまたやり、さらには、学校の介助員にもなられた例さえあります。ふれあえるから楽しい。世田谷の身障会の仲間たちは最後はケンカになり、潰れましたが、本当はたのしかったし、ケンカはせず、活動復活させたい人たちも多いかもしれません。今度は個人的な活動。
最後に、諸々の活動の中から、僕なりの仕事が生まれれば良いと思っていました。時は経ましたが、子供向け文と例の小説がそれに当たるようです。良かったし、ロボットは小説などは書けませんね。ふれあいもできない。その見方はおかしかったようです。
(ミニコミしたくなかった原因も「ふれあいがない」事だったね。何かの社会批判しても、ふれあいはなく、寂しくなる事を最初から僕も直感して断ったと。同様の旧友たちも多かったと思う。また、ふれあいのない社会変革運動は何なのか。やはり、社会変革を掲げていたナチスさえも連想させられる。そこまで行かなくても、その発想自体が冷たいものだったと。真の社会変革は温かみのあるものでないといけない。今の僕なら、その事をその相手に訴えるが)