言葉の説明から。「資本主義」とは、企業発起人が資本金を元手に労働者と原材料を集めて労働させ、利潤を得て、それで企業を半永久的に大きくしていく制度である。
「富民化」は文字通り、マイノリティ含めて、国民を富むようにする政策。社会主義的な手法と、資本主義を利用したケインズ手法に分かれる。戦後の資本主義諸国も大体はケインズ政策であり、それまであった純粋な資本主義ではない。ただし、旧ソ連などにあった社会主義は何でも「国営企業」だから、そこは違うわけである。北朝鮮は今でも旧社会主義かもしれないが、中国はケインズ的な経済に変化しているように見える。
確かに、「飢えからの解放」は人類の悲願であり、必要な事である。それに尽力したケインズやマルクスは一定の評価は歴史的に見て与える必要があると思う。悪くは言えないと。
でも、そのような事ばかりに目が向くと、物質主義的な発想になり、果ては「金が全て」みたいな発想に陥り、政治にも影響して、金権腐敗もするわけである。または、うまいものばかり求める生き方になるとか。どちらにしても、他人の心を思いやれない、冷たい心しか持てなくなり、潜在的に常に寂しくなる。社会全体がそうなれば、親子・兄弟・夫婦・男女間も愛も生じなくなり、ケンカや無関心にもなる。芸術も生まれにくくなる。また、死後世界があったとしても,地上のお金は持っていけないから、死にも老年期になるまで無関心になり、人間の持つ弱さにも気が付かなくなる。哲学や宗教も衰えるわけである。文学もそれで質が落ちるも知れない。
「飢えからの解放」は大いに肯定はしても、資本主義や富民化は人間が生きて、愛し合う「心の指針」にはならないわけである。富民政策は良いし、改良し、世界中前進させる必要がこれからもあると思うが、その他に「心の指針」を求める事も大切だろう。1990年代の僕が愛読した「神との対話(ニール・ウォリッシュ著)」の中には、「死は人間たちに(神が)贈った最大のプレゼントだよ」ということも書かれてあったが、特定の文明リーダーが現れなくても、多くの人たちが「死」を見つめて共有していけば、新文明は簡単に、早くできるかもしれない。