K氏の悲惨な声をまともに聞かない人たちの鈍感さ、冷たさである。それが彼を怒りに導いた。同郷の共通の旧友によると、後年の彼は「(手話会や福祉会で一緒だった人たちに)会いたくない」そうである。それだけ怒りが強かったと。そう言えば、僕も2、3回手話会に行った事があるが、大まかな話ばかりしていて、車いす姿で来ていた僕にも関心を示さなかったのを覚えている。僕と一緒に行った、後に弁護士になられたA氏がしきりに「皆、冷たいね」とおかしさを述べていたのが印象的だった。男女の別なく、大まかな印象が残っている。また、会員にこのような人もいるのに、反養護学校の身障者や盲人の運動に共感し、地味に聴障関係の悲惨な訴えをしているK氏の方を向かなかった福祉会の人たちも何なのか。これも細かさに欠けたと。共感しなければ関われないのも、一種の鈍感だろうし。まだ反養護学校運動で良かったと思う。ヒットラーや、オウム真理教の麻原は共感を利用して、あのような事をしたではないか。日華事変後の日本の各新聞も軍部への共感を煽り、戦争の道に拍車を掛けた。
そうではなく、大切なのは他人の心の細かい面に気を配る事であり、それが人間関係の基礎ではないか。単に対聴障者に限らない。全ての人たちとの付き合いに不可欠なものである。それなしでは、どんな友情も、恋愛もできない。一緒にコンパしても、細かさが欠落したら、まともな関係はできないわけである。僕やかなりの旧友が若い時に恋愛縁に恵まれない。そうなってもケンカ別れの例が多かった理由とも重なるわけである。僕の旧友たちにも非婚が男女共に多い理由とも重なると。K氏を怒らせたものと全く同じものだと、今の僕は気が付いている。
確かに、聴障問題は大切だし、例えば、今もNHKの天気予報に字幕スーパーがない事はおかしいと思う。それは改善しないといけないが、それ以上に他人への細やかさが必要だし、例えば、いくら手話技術を身に着けても、大まかな付き合いしかできなければ何の意味もない訳である事をK氏も教えてくれているように思われる。古典落語を聞くと、日本は細やかな思いやり合いが豊かな社会だったのに。どうしたのだろうね。復活すると良いわけだが。