1970年も5月。テレビは連日大阪の万国博覧会と、日米安保条約、学園紛争、ベトナム戦争を取り上げている。しかし、それまでとは違い、藤圭子の「夢は夜開く」という落ちこぼれ女性の歌が流行るなど、気だるい感覚も世間の底辺から出ていた年であった。何もその影響を受けたわけでもないだろうが、創立九年になったシマハタも少しずつ流れが変わってきた。
当初ははつらつとしていた林田博士だが、ときどき院長室でお茶を飲みながら、心の疲れを感じ、風邪でも良いから、このまま数日間、寝込みたい気持ちにもなる事が次第に出てきた。頭髪も白くなり、かなり抜けている。鏡を見て、
「白髪三千丈の漢詩も判るな」と独り言もつぶやく。でも、すぐに我に返り、
「落ち込んではいけない。園児たちの命や、職員たちの生活が私の手にかかっているから」と思い直すわけである。
職員の中にも、気鬱になる人が次第に出てきた。「腰痛・頚腕痛・気鬱」は、三つのシマハタ病と呼ばれるようにいつしかなった。
「私はここに来て五年になるの。去年までは張り切って、看護をしてきたけれど、今はだんだん園児たちの声を聞くことが面倒に感じられるわ」。
「毎日、同じことの繰り返し。何故、そうするのか、考えちゃう。もちろん、答えなんて出ないけれどね」
「僕は頭が良くないから、そのようなことは考えれないけれど、毎日のこの生活に、気だるさを感じるな」
園児たちがかわいそうに思いながらも、「どうしてもやる気が出なくなった」と言って、泣きながら退職していった人もいた。
林田博士は
「精神科医の言う所の気鬱症かもしれない。私には専門外でよくわからないが、自覚症状がないだけ、厄介だ」と
それについて述べている。
確かに、気鬱症とか鬱病は心の病気であり、病変もないから、わかりにくく厄介である。医者自身もそれにかかってもわからず、「落ち込み」としか思えない例も多いわけである。
少しずつ無気力な職員が出てきたことを敏感に感じ取った精神薄弱室や身障室の園児もかなりいた。精薄室では
「矢追さん、最近、ぐったりね」と指摘する子も現れたし、身障室では
「金さん、体は元気だけど、心は疲れているみたいだわ。心配よ」と声をかける園児もいた。
身障・男子部屋の最年長園児の秦野幸雄は
「私が来たころはみんなはつらつとしていた。今も愛はあるけれど、シマハタの心が薄れてきた気がする。しばらくは持つだろうが、先行きが気になる」と、職員に日記を代筆してもらった。その職員は一瞬考え込み、
「幸男君の言う通りかもしれない。歯車が少しずつ狂ってきた。それを戻す方法はあるのだろうか。世間も万博で浮かれているけれど、景気のよいことはいつまでも続かないし。不景気になったら、シマハタはどうなるだろうか...」
と返答した。
それから半年が過ぎ、11月25日。世界を震撼させる事件が東京で起きた。作家の三島由紀夫が自衛隊仲間と共にクーデターを計画し、失敗。割腹自殺した事件である。首をはねたシーンは朝日新聞の夕刊にも載り、シマハタの一同も目にした。職員たちは
「恐いね。ドラマで見る226事件みたいだ。後続もあるのかな。あと、昭和10年代みたいに戦争になったら、シマハタも終わりだ。そうなってほしくない」。
「美濃部都政誕生や、学園改革など、今までは世論が革新的になり、その余波で福祉も増進してきたけど、これからは逆コースになり、福祉は切り捨てられるかも知れないわ。これからどうなるのかしら」
と不安を述べ合った。林田博士も
「戦争の世の中になることだけは御免だ。神よ、日本を守りたまえ」と祈った。
万国博に開けた1970年は三島事件の余韻の内に消えていった。少し前まで盛んだった全学連だが、右翼系の底力を見せつけられ、挫折感も出て、低調になった。海外では、アメリカのニクソン政権がベトナムからのアメリカ軍撤収を模索するようになった。日本も、世界も大きく変わろうとしていたわけである。