「こんな夜更けにバナナかよ」の冒頭の若いボランティア同士の恋愛の様子を見て、東京の70年代後半の某福祉会のその様子も思い出した。大違いだった。
大体が「寂しいから」、感情的になって求め合うもの。異性を求め始めれば、理性も失う。僕もその会に入り、変だと思った。高校時代、国語の時間に学んだ夏目漱石著「こころ」や、武者小路実篤著「友情」に出てきた恋愛とは非常に掛け離れていたからだ。例の伊藤節男伝道師もその様子を会の一人から聞いたらしく、「おかしい」と僕に漏らしていた。僕がその会に持った一番の違和感もそれだったかもしれない。その会の一人から「オレは単に寂しいから、異性を求めた」と会がなくなった後で聞いたが、その通りだったかもしれないし、それはエゴ行動てあり、恋愛とも違うわけである。
以上の様子は、僕が当時、同時に入っていた地域関係のボランティア同士も同じだったと聞いた事がある。その会は多くの身障者がいたが、「身障者は恋愛対象から相手にされなかった。差別だ」と後年まで怒っている人たちも多いらしいが、差別以前にそのコミニティも、恋愛なるものがなかったのである。
どちらも「一緒に何かをして友人なる」事をしようとした。試みは100%失敗。当たり前だ。祈りが欠落していたから。これが寂しい事の全てだった。旧約聖書の「バベルの塔」の話は、傲慢になった人間たちが祈りを忘れ、意志疎通もできなくなっていく話だが、以上は「祈りを知らない」のだから、もっと性が悪い。罪とも言えるのかと。非常に難しい問題を見てきたわけである。