あらゆることに言える。まずは、例の教会関係から話そう。
そこに行き始めた時から僕はおかしさを感じた。「教会共同体」維持の話ばかりを牧師たちや教会役員たちはしていたから。聞いてみると、明治からそうだったとか。でも、何がおかしいか、判らないまま、僕は教会を去った。今はよく判る。「共同体」なるものは、個性を持った一人一人違う人間が自然発生的に集まって作られるものであり、個人や個性が基盤。それを抜かして、いきなり「共同体」。ならば、それは共同体ではなく、「組織」に過ぎない。よくは判らないが、明治期に翻訳ミスがあったのかもしれない。又、旧約聖書の初めの方には「(神は)我々にかたどって人を作った」と神自体を複数形で書いてある。つまり、「個性は神の持つ多様性の一つ」と解釈できるし、個性尊重がなければ、ユダヤ・リスト・イスラムの信仰はあり得ない事になる。新約聖書を見ても、イエスが個人個人を大切にした様子が描かれているし。個性尊重という事がなければ、信仰も生まれず、偽信仰みたいになり、戦前は戦争に奉仕し、戦後はひどい例は牧師レイプや殺人事件にまでつながった。そうだろう。
戦前の政府や世論も同様。その現れの一つが諸々の戦争であり、ハンセン氏病患者強制隔離だったと思う。個人個人を大切にする社会ならば、そのような事はありえないわけである。公娼もあったし。それらは何も日本だけでもなかった。全世界がそうだった。だから、極端な例であるナチスも出たわけである。
戦後も世界的にかなり残った。かなりの国々で障碍者を大規模コロニーに収容した問題は典型例。あるいは、1970年代まで日本の地方の養護学校は、身障児にもまともに教育しないなど、滅茶苦茶で、子供の時にそのような所に入った障碍者のかなりは後年までトラウマを残しているわけである。当時の文部省役人も「個人を大切に」の発想があれば、違ったものになっただろうに。残念。
以上に反発し、当然、個性・個人を大切にしなければならない身障者やボランティアたちだが、おかしなことに彼らも同じ事をした。例えば、個人を無視して、「障碍者としての意見」とか、「ボランティアA会としての行動・働きかけ」とか。その中の、学校関係についての話し合いも児童個人個人の事を話さず、個性も入れないで、いきなり「統合教育」みたいな話ばかり。それらの話し合いは抽象論ばかりで、潰れた。誰にも判らない話をして。中には、ハンセン氏病問題も、元患者の個人個人の事を無視して話し合われた事があった。1977年に僕は立ち会ったが、その7年後、冒頭で述べた教会関係でも、全く同じ話し合いがあり、更に変に思った。ハンセン氏病関係も、学校関係なども、問題意識を持つ人だけが個人として行けばよいのに。何かの会として行ったから、狂ったわけである。
今のコロナ関係も、患者や医者、ナースを個人として見ていく事が肝要である。個人として見れば、その細かい気持ちも判り、差別された時の切なさも判るのではないだろうか。
とにかく、これからは個人が尊重される社会になる事を望む。個人が無視される社会で、よくなるものは軍隊だけらしいから。それと、オウム真理教みたいなカルト団体。仕方ない訳である。