先日、抽象論を言う人たちの事が理解できなかった事や、抽象論の根はエゴではないかという推察も書いたが、僕が今まで見聞きした社会の中で、抽象論が一番ひどかった所は僕が行った教会関係である。新約聖書を読めばわかる通り、イエスの話は具体的で判りやすいが、そこは牧師の説教も、役員や信徒たちの話も極めて抽象的。反復再現もできないだけのものだった。当然、仲間同士の話も理解不可能。恐らくは、自分の言っている事も判らないのではないかと。話も通じ合えないのならば、「セックスしか結ぶものはない」という事にもなってくる。また、抽象論の根=エゴならば、その教派もエゴに満たされている事にもなる。
さかのぼると、その教派も戦前は旧日本軍に奉仕してきた。それも明治期からである。任意で奉仕。すでに1894年の日清戦争の時は積極的に協力していたという。実際はそれよりもかなり前からだが、その時から数えて、約50年間も軍に協力したわけである。戦争は国家や民族のエゴは勿論、人々のお金や物質的な欲望・エゴも複雑に絡み合って起きるものだから、軍や戦争に奉仕しているとその教派はたくさんのエゴに満たされたものになってしまうのではないか。無論、反戦を唱える者もたくさん出たと思うが、「軍に奉仕」の大勢にかき消され、無視され、歴史の闇に消されたようである。同時に、軍は男中心でもあるので、奉仕した教会もそうなり、女性差別にもなってくる。1945年の敗戦で軍への奉仕は終わったが、「エゴに満たされる・女性差別」の体質は簡単には終わらないだろう。戦後もずっと受け継がれ、組織エゴ、男性エゴに凝り固まり、そこにたまたま性欲の強い体質の男牧師が二人現れ、レイプに至ったのではないだろうか。また、その内の一つは、牧師会が隠ぺいしようとした。まさに、組織エゴである。エゴで成り立っているのならば、抽象的な話や説教にもなると。
因みに、今、朝日新聞の朝刊の小説の「また会う日まで」には、戦前の日本の教会と軍との関わりが述べられている。すでに二つの教派が実名で書かれてあったが、何もその二つだけでもないと思う。多くの教派がそうしたのかも知れない。貴重な小説である。
もう一つ。日本のプロテスタント関係は戦争関係は太平洋戦争と昭和天皇の戦争責任論に集中しているが、それらはほんの一部に過ぎない。「日清戦争以来」だろうし、それ以前の明治政府や資本主義の問題も掘り起こさないといけないわけである。明治とは何だったのか?が問われているわけだから。...。